救済以外の救済
明治36年9月20日
(「蚕業新報」125号に寄稿したもの)
農民の救済に就いて語れとの事である。そしてこの国においては、救済と言えば直ちに、経済上の救済のことを言うのである。
どうすれば農民の懐を肥やせるか。どのようにして彼等の借財を弁償してやろうか。どのようにして彼等に、肉体的な快楽を供しようか。これがこの国における農民救済の問題である。
しかし、もしこれが農民救済の全てであるならば、私のような者は、この事に就いて一言もくちばしを容れる権利を有たない者である。
しかしながら、農民もまた人間である。そして人間である以上は、その所有を豊かにしたとしても、それでその救済を全うしたと言うことは出来ない。「人はパンのみを以て生くる者にあらず」と古哲も言った。
農民の救済をその経済的救済だけに限る者は、農民を非常に賎しく見る者である。
それだけではない。たとえ経済的な救済が唯一の目的であるとしても、これを経済的方面からばかり求めても、得られるものではない。
人は肉体ばかりではないから、彼の肉体を満足したところで、それで彼は満足するものではない。彼に精神とか霊性とかいうものが存する以上は、彼はまたその方面の救済をも要求する者である。
またその方面で健全でなければ、彼は彼の欲するこの世の宝を得ることは出来ない。またもし得たとしても、これを有益に使用することはできない。
ゆえに農民救済を経済的の一方面だけに限る人は、経済的にも彼等を救うことの出来ない人であると思う。
経済は道徳と全く分離して論じることの出来るもののように思った時代は、既に過ぎ去ったと思う。有名なアダム・スミスさえ、経済を道徳の一部分として論じた。今の世の人が、殊に今日の日本人が、道徳の経済的能力に深く意を留めないのは、彼等の大欠点であると思う。
救済という言葉にこの広い意味を付して、即ちこれを
人間全体の救済という意味に取って、私もこの問題に関して説を述べる権利を有つに至るのである。農民の救済、即ち、如何にして農民を歓喜、平和、一致、満足の生涯に導くか、これが目下の大問題である。
そして
私達が先ず第一に注意すべきことは、農民救済の方策は、人類全体の救済方法と多く異ならないという事である。同一の方法によって、商人をも職工をも、官吏をも救うことが出来る。
失望した人、落胆した人、堕落した人に、いくら金銭を供しても、少しも救済にはならない。殊に外から援助を供することは、危険が多くて益が甚だ少ない。
最も健全な援助は、その人の意志を強くし、彼に新希望を供し、彼が自ら奮い立って、彼の地位を高くするようにすることである。これが最も完全な救済法であって、この方策によって救われた者は、終生再び死地に陥る危険から免れる者である。
そしてそのような救済は、決して実行困難な事ではない。精神がひとたび発起して、万事を成し遂げた人は沢山いる。またこれを世界の歴史に照らしても、新理想の注入によって、たちまちのうちに富強に達した国民の例も決して少なくはない。十五世紀のオランダなどは、その一例である。
英国とか、北米合衆国などでさえ、その民の富強は、その国の生産力によるのではなくて、その民が採る主義・精神によるのであるとは、今日の第一流の社会学者が唱えるところである。
富は力に因って、力は精神に由る。精神とは風のようなものであって、これと富とは何の関係もないように思う人は、未だ精神が何であるかを知らないのである。
精神とは、世にいわゆる「元気」ではない。大言壮語もまた精神でないことは言うまでもない。精神とは、その本当の意味において、
人の真体に加えられた能力である。即ち
霊能である。これを発動させれば
動となり、
物となって、人類をその最も高尚な、かつ最も確実な意味において富ますものである。
そして私が見るところでは、日本国民の最大欠点は、この霊能の欠乏に存している。農と言わず、商と言わず、工と言わず、官吏も政治家も文人も学者も、日本人と言う日本人は、みなこの能力において欠けている。
彼等は人の霊魂なるものは、大能力の受器であることを知らない。彼等は能力と言えば金であって、「金これ力なり」と思っている。しかしながら、これはこの国においては誰もが言うことであるが、それは大きな誤謬である。
人の力は、彼の内に存する霊能である。米国の金銀がコロンブスを駆り立てて、彼の大発見の途に上らせたのではない。コロンブスの霊能が、彼に数十年にわたる困難に打ち勝たせて、終に世界の黄金国を発見させたのである。
霊能を有つ者は、既に宝の山を有つ者である。そう言うのは寝言ではない。人類の長い間の経験によって証明された事実である。
誰が日本人に霊能を供するのか。ドイツを今日のように強大にしたのは、その政治家と経済学者とばかりではない。ドイツ人の閉ざされた心の門を開いて、その中に霊能を注ぎ込んだマルチン・ルターその人が、ドイツ人の今日の富強の基(もとい)を据えたのである。
英米両国において、近頃ジョン・ウェスレーという宗教革命者の出生二百年紀が祝われた。そしてかの国における経済学者は、異口同音にウェスレーの宗教革命が、英米両国の産業の進歩に、偉大な効果を奏したことを述べた。
人の心を開く者は、新富源を開く者である。富を国土だけに求めて、これを人の心において求めようとしない者は、天が人にお与えになった大富源を捨て、これを顧みない者である。
ゆえに私のような、経済には甚だ暗い者でも、この事を知る以上は、経済以外において、我が国の農民を救うことが出来る。農民の心を開き、これに人生の新興味を供し、慈善と労働の快楽を教え、地を愛し、これを天然の法則に従って耕させることが出来る。そしてこれまた偉大な救済であることを疑う者は誰もいない。
今これを実際問題に照らして考えると、日本農民が大いに苦痛を感じているのは、その
家庭組織である。これは、日本人であれば誰もが深く感じるところのものであるが、農民のように永くその土地に居着いている者は、いっそう深くこれを感じるのであろうと思う。
親類との関係、家督制度、分家分財の習慣、仏事の施行等、田舎住まいをしない者には、とうてい推測できないこれらの繁雑が、いかに日本農民を苦しめつつあるか、またそのために、如何に彼等の産業が妨げられ、彼等がどれほどその財産を無益に消費しつつあるかは、実に農民以外の者には推測できないところである。
今の日本の農民にその富を増し与えても、彼等がそれによって益するのは、至って僅少である。多くの場合においては、彼等は富が増したために反って多くの困難を招くようになる。
彼等は何事を為すにも、親類会議なるものを開かなければならない。そしてその親類は、多くは旧弊保守の人であるから、全ての革新には必ず反対する。彼等は、祖先伝来の財産を大事に保存する以外に、家産増殖の道を講じることは出来ない。
海外移住も出来ない。農事の根本的改良も出来ない。仏事祭礼等の有害無益な儀式習慣の廃止も出来ない。彼等は愚と知っても、愚を続けなければならない。知と知っていても、知を実行することが出来ない。
日本農民の家族制度を改良するまでは、日本農業の改良は始まらない。
日本の豪農の家に放蕩息子が多いことは、実に著しい事実である。父と祖父とが一銭一厘を惜しんで貯めた身代を一夜に消費する者が、農家の子弟の中に多いことは、世の経世家が、大いに意を注ぐべき問題である。
そして衷心(ちゅうしん)から日本の農民を救済しようと思う者は、大いに農家の子弟感化策を講じるべきである。
私は、一年足らずのうちに三千円を田舎芸妓のために消費した豪農の息子を知っている。私はまた、息子が飲酒放埓(ほうらつ)のために全く身体の健康を損ない、その結果として彼を廃嫡し他家から養子を迎えなければならなくなり、終に家庭に大悶着を起こし、それによって家運を傾けた日本の農家を知っている。
そしてそのような例は、日本においては決して少なくない。地方を遊歴して、日本農業の子弟の堕落を見る以上に悲しいことはない。
農業の救済を言うなら、ああ、農家の子弟を救いなさい。ああ、彼等を道徳的に救いなさい。彼等に知恵と徳とを授けなさい。彼等を真面目な者にしなさい。
農家の懐を肥やすに先だって、農家の子弟の乱費を止める策を講じなさい。これは実に救済ではありませんか。道徳は農家に不必要であると、誰か言う者がいますか。農業銀行の設立を主張する者は、これと同時に田舎料理店の開店を主張すべきである。
一放蕩児は、農家百年の辛苦を、一夜の夢として失わせる。そのために父は怒り、母と妻とは泣き、弟と妹と子とは路頭に迷う。それだけではない。彼の悪感化は全村に及び、青年はそのために浮薄に流れ、労働はそのために疎かにされ、収穫はそのために少ない。
私は日本農民救済を絶叫する者の中に、眼(まなこ)をこの辺に配る者が甚だ少ないことを常に不思議に思うのである。
日本の農業に取って、最大問題と言うべきものは、地主と小作人との関係である。この関係が滑らかでないために、農家の苦痛の十分の八が生じるのだと思う。
どうしたら地主と小作人とを親睦にすることができるか。これは経世家の頭脳を絞らせる大問題である。小作条令の発布は、常に政治家の口に上る。
地主取締りの必要は、社会主義者が常に唱道するところである。この問題が解決されなければ、日本の田畑は終には荒廃に帰し、一大騒乱は全国を通して起こり、そのために死屍累々(ししるいるい)として全国の山野を覆うようになるであろうという心配は、必ずしも杞憂であると言うことは出来ない。
そしてこの危険を避けるために、私にしても、もちろん完全な小作条令の必要を感じる者である。しかしながら、法律だけで地主と小作人との間の関係を円滑にまとめることは、望むことのできないことである。
地主は全体、小作人をどう思うか。小作人は、鋤(すき)や鎌(かま)のような機器ではないし、また牛馬のような動力でもない。小作人は人である。同胞である。多くの意味において尊敬すべき者である。地主にこの事が十分に分かるまでは、如何に完全な小作条令が発布されても、小作問題は解決されない。
また、小作人においても同じ事である。地主を、ただ小作米の強求者とだけ思い、自分の天と地と人とに対する義務を悟らず、ただ不平を唱えて、なるべく地主の権利を縮めようとだけ思い、地主からどれほど寛大な待遇を受けても、これを有り難いと思わない。
慈悲と公平とは、地主だけに必要ではない。また小作人においても、大いに必要である。
地主に小作人を慈しませ、小作人に地主の心を推し量らせるようになって、始めてこの困難な小作問題は解決されるのである。
ここに至って、伝道なるものが、農業改良にも非常に必要なことが感じられるのである。そして私達伝道師は、世の政治家や経済学者には常に無用物視されているにもかかわらず、ある場合においては、彼等政治家輩が夢想もしない所において、有力な農事改良を実行しつつあるのである。
私達の説教によって、一家が全くその面目を改め、小作人は喜び、土地は以前に勝って大切に取り扱われ、収穫は増し、その恩恵が延びて彼等が飼育する猫や犬にまで及んだ例は少なくはない。
私達は、法律の力を借りず、また学者の権威を用いずに、世の腐敗に沈んでいる農家の中に、希望の光明を送り、彼等に一厘の富を増し加えずに、豊饒の秋に遭った時のような歓喜を彼等に供することが出来る。
私達はそう言って、何も私達の理想を語りつつあるのではない。私達は、私達の実験を語りつつあるのである。私達は実際に、天から降る慰めを以て、我が国の農民を救いつつある。
前にも言った通り、私達には金も無ければ銀も無い。しかし、私達が有つ
ある物によって私達は、大政府の威力を以てしてもとうてい為すことの出来ない
ある事を、我が農民の中になしつつあると思う。
完