「信仰と境遇」他
明治36年10月15日
1.信仰と境遇
私の場合には、境遇は信仰を作らず、信仰は境遇を作った。神は全ての良いものを、信仰の報償として私に下さった。「
爾曹の信ずる如く爾曹に成るべし」(マタイ伝9章9節)と主は言われた。私は私の信仰を大きくして、私の境遇を改良できるのである。
2.この世で王となる途
私がこの世から何も望まないようになって、この世は全て私のものとなるのである。私が私の籍を天国に移して、同時にこの世の王となるのである。
現世はこれを来世から求めるのでなければ、私達には享有できないもののようである。キリストが言われる「
夫(そ)れ有つ者は予へられ、有たざる者は其有てるものまでも取らるべし」(ルカ伝19章26節)という言葉は、おそらく来世と現世とのこの関係を述べたものであろう。
3.福音の真髄
「
イエス・キリストの血すべての罪より我儕を潔む」(ヨハネ第一書1章7節)、福音の真髄はここに在る。これがなければ、福音は福音ではない。
「
東の西より遠きが如く、エホバは我儕の愆を我儕より遠ざけ給へり」(詩篇第103篇12節)、私はその説明を知らない。しかし、それが事実であることを信じる。
私の救いは私の罪の赦免から始まった。そして罪の赦免の理由は、十字架上の神の独子の犠牲にある。これを仰ぎ見て私は始めて新しい人と成った。
4.私の大野心
聖なる父よ、私を伝道師にして下さい。私が、あなたの福音宣伝以外に私の終生の事業を求めることがないようにして下さい。私を、人をその枝葉において救う小慈善家にせずに、その根本において彼を助ける大慈善家にして下さい。
私が、自分の生命を同胞のために献(ささ)げるに当たって、彼等の国家、または社会、または肉体のためにこれを献げずに、彼等の霊魂のために献げさせてください。
父よ、あなたの福音によって、罪人をあなたの懐(ふところ)に還らせることより小さな事業を、私の終生の事業とさせないで下さい。
5.ああ、神の愛!
「
キリストは、我儕のなほ罪人たる時、我儕の為めに死たまへり。神は之によりて、其愛を彰(あら)はしむ」(ロマ書5章8節)。
神の愛とは、実にそのようなものである。義人とか善人である者を救うのは神の愛ではない。神を憎み、神に背いた者を救う道を設けられて、神はその愛を表された。
天が地よりも高いように、神の愛は人の愛よりも大きい。人はキリストに現れた神の愛を知らずに、愛が何であるかを知ることはできない。
神は愛であって、愛は神である。天空が地上の汚れた空気を吸収消尽するように、私達の罪悪を無限の大気の中に吸収し、消滅させるものは、神の愛である。ああ、神の愛!
6.教会と信仰
教会は信仰を作らず、信仰は教会を作る。教会を作ろうと焦(あせ)る者の教会は衰え、信仰を説くのに熱心なあまり教会のことを顧みる暇(いとま)のない者の教会は栄える。これは真理である。また事実である。
門前に雀羅を張る多くの衰微した教会は、その教師が、教会の事にあまりに熱心なことによって、その衰微を招いたのである。慎まないでよかろうか。
7.アルファ(始)とオメガ(終)
第一に信仰、第二に善行、第三に知識、第四に礼節、第五に、あるいは第六に、あるいは第七に、あるいは第八に、即ち最後に信徒を統治するための制度である。
キリスト教のような心霊的宗教に在っては、制度は最終最尾のものとならざるを得ない。宗教の事と言えば、必ず教会の事を語る者などは、未だキリスト教の精神を知らない者である。
8.一致させるもの
一致はキリストにおいてのみ存在する。信仰箇条においては存しない。教会制度において存しない。人の霊魂を縛るものは、キリストの愛を除いては他には無い。愛心以外のもので信徒の統一を計るなど、これを無謀の極と言わずに何と言うか。
9.私の救い
私は、私が好んで救われたのではない。私は、私の意に逆らって救われたのである。私は現世を愛した。ところが神は、現世における私の全ての企図を破棄されて、私が来世を望まざるを得なくさせられた。
私は人に愛されることを願った。ところが神は、多くの敵人を私に送って、私を人類に就いて失望させて、神に頼らざるを得なくさせられた。
もし私の生涯が、私が望んだとおりのものであったならば、私は今は神もない、来世もない、普通の俗人であったであろう。私は神に余儀なくされて、神の救済に与ったのである。ゆえに私は、私が救われたことに関して、何も誇ることはない者である。
完