来世は有るか無いか
明治36年10月15日
その一 キリスト信者の来世観
問 あなたは、来世があることをお信じになりますか。
答 もちろん信じます。
問 どういう意味において、これをお信じになるのですか。ある意味においては、私もこれを信じて疑いません。
答 私がキリスト信者として信じる来世は、ある特別の意味においての来世です。即ち聖書が明白に示している意味においての来世です。
問 それはどういう来世ですか。
答 それはもちろん、ただの
未来の意味においての来世ではありません。この世に未来があるのは、これに過去があったと同じように、何も別に考究する必要のないことです。
問 それではあなたが信じておられる来世は、今世とは何の関係もないものですか。
答 いや、関係がないとは言えません。しかしながら、ある特別の危機(クライシス)を経過せずには、来るべきものではありません。私の言う来世は、この世がこのまま段々と進化して、終に来るものではありません。これは、この世以外から来る勢力によって、建設される世です。
問 それは、私が考えている来世とは、だいぶ違っています。それならば、あなたの子孫ではなくて、あなた御自身が直ちにこれと関係を有たれるような来世をお信じになるのですか。
答 おっしゃる通りです。私が信じる来世は、単に「後世」ということではありません。私はもちろん後世があることを信じます。またそれと同時に来世があることも信じます。
問 それでは何によって、あなたはそういう来世をお信じになるのですか。失礼ながらあなたの御信仰は、少し善男善女のそれに似て、迷信のように思えます。甚だ失礼な申し分ではありますが。
答 そうおっしゃられるのも、ごもっともです。しかしながら私は、私が頼る聖書の訓示(しめし)と、私の短いながら今日までの生涯の実験と、また私が常に尊敬して止まない世界の偉人の証言とによって、来世の存在を信じて疑わないのです。
問 これは近頃珍しい御信仰ですね。昔はそのような信仰を有った者がいたと聞きましたが、学術日進の今日、そのような来世の信仰を懐かれる方に、今日まで未だかつて一回も会ったことはありません。甚だ御迷惑ではありましょうが、少々あなたの来世にかかわる信仰の理由を聞かして下さい。
答 御質問はごもっともです。聖書にも、「
爾曹の衷にある望の縁由(ゆえよし)を問ふ人には柔和と畏懼(おそれ)を以て答をなさんことを常に備えよ」(ペテロ前書3章15節)と書いてありますから、私もこの御質問に対しては、出来るだけ明白にお答えする義務を有っています。
その二 来世存在に関する聖書の示顕
問 それは真にありがとうございます。それでは伺いますが、聖書は果たしてあなたが言われるような来世があることを、示していますか。
答 私は、いると信じます。旧約聖書はひとまずおいて、新約聖書のこの事に関する示顕(しめし)は明らかです。ヨハネ伝の十八章三十六節に、イエスは、「
我国はこの世の国に非ず」と言われたと書いてあります。
ある人は、イエスがここに
この世と言われたのは、
この時代という意味であって、
この世の国に非ずと言われたのは、後世を指して言われたのであると申しますが、しかしそれは、甚だ無理な注解であると思います。
原語の Kosmos の普通の意味は、
世界または
現世です。
この世の国に非ずとは、
現世とは全くその性質を異にしたものという意味であると思います。
問 その他の、来世の存在を証明する聖書の語句を示して下さい。
答 それは、聖書の至る所にあります。人々があまり注意しないことですが、有名なキリストの山上の垂訓は、来世の存在を事実として説かれたものであると思います。
「天国は即ち其人の有なれば也」と言われ、「地を嗣ぐことを得べければ也」と言われ、「天に於ては爾曹の報償多ければ也」と言われたのは、現世以外に、別に神の御国があって、そこで義者仁人は適当な報賞に与るであろうという意味で、この語を発せられたのであると思います。
来世の報賞を説いて、善行を勧めるのは、善行そのものに重きを置かない処置であって、聖人の処置とは言えないと言う人もいますが、しかしそれはそうとして、イエスがここに天国の報賞によって人に善行を勧めたことは、明らかな事実です。
問 さらに聖書の説明を続けて下さい。
答 マルコ伝十章三十節に有る、イエスがその弟子たちに迫害と共に報賞を約束された言葉の中に、
又後の世には窮(かぎり)なき生を受けんと言われたと書いてあります。
ここに書いてある「後の世」は、今日世に言う「後世」でないことは、そこに「窮なき生を受けん」と書いてあるので分かります。イエスはその弟子たちが現世の後に窮なき生命を受ける世があることを、ここに明白に証言されたのです。
その他来世の存在に関する聖書の証言は、数限りありません。ヨハネ伝十四章以下にある有名なイエス決別の辞など、来世の存在を否定しては、とうてい分かるものではありません。
またコリント前書十五章のパウロの復活に関する大議論なども、来世を無いものと認めては、痴人の夢としか解することは出来ません。また有名なヘブル書第十一章の信仰称賛の辞などは、もし来世の希望を有たない者が書いたとすれば、何の意味も無いものであると思います。
彼等は皆信仰に由りて美名(ほまれ)を得たれども、約束の所を得ざりき。
そは、彼等も我儕と偕(とも)ならざれば成全(まっとう)すること能はざる
為めに更に愈(まさ)れる者(所)を神、予め我儕に備へ給へり。(39、40節)
「
それ信仰は望む所を疑はず、未だ見ざる所を憑拠とするもの也」(ヘブル書11章1節)。キリスト信者の希望とは、他のものではありません。それはキリストが全権を握り、罪悪がその根を絶つに至る未来の神の王国です。
そしてこれは、キリストの再来を待って始めて建設される王国です。使徒パウロ自身も、熱心に来世を望み、これに入る特権を望んで、そのために彼の全生涯を伝道のために奉げたのです。
「
兎にも角にも死たる者の甦へることを得んがためなり」(ピリピ書3章11節)とは、彼の終生の祈願でした。それゆえに彼は死に臨んで、この希望に達することが出来たと信じたので、かの有名な凱旋の声を揚げたのです。
我れ既に善き戦をたゝかひ、既に馳(はし)るべき途程(みちのり)を尽くし、
既に信仰の道を守れり。今より後、義の冕(かんむり)、我が為めに備へあり。
主は審判の日に至りて、之を我に予ふ。 (テモテ書4章7、8節)
パウロの来世観を否定しては、彼の書簡を読んでも興味は甚だ少ないと思います。
もしまた黙示録に至っては、来世の存在はその記事の主な題目であって、これを否定してしまえば、この書は何の面白みもないものとなります。主は、来世の栄光を約束されて、彼と共に艱難を忍ぶ者に告げて言われました。
「
我れ速かに来らん。爾が有つ所のものを堅く保ちて爾の冕を人に奪はるゝ勿れ」(3章11節)と。
聖徒がこの世において遭遇する全ての艱難は、彼が来世において受ける全ての特権と栄光とで慰められるのです。地に在っては、彼が受けるものは火であり、剣であり、飢餓であり、疫病です。しかし、天に在っては、
能力、尊敬、栄光、讃美です(5章12節)。
地に在っては、
悪魔と称えサタンと称える竜(20章2節)が勢力を握るのに対して、天に在っては、
子羊が白き細布を着、白馬に乗った諸軍を率いて、万民を統治されるのです(19章14節)。
天国とは、「
聖城(きよきまち)なる新らしきエルサレム、神が彼等の目の涙を悉く拭ひ給ふ所、死の無き所、哀み、哭き、痛み有ることなき所、万国の民を医す」ための葉の茂る所です(21、22章)。
火と戦争とだけを書き記した書のように見えるこの書の中に、婦人の心に有るような優しい、涙の多い所が有るのは、その中に来世の希望が満ち溢れているからです。
黙示録をどう解釈しようと、もしその中から来世の希望を取り除いてしまえば、何の慰めもない書となります。黙示録が私達キリスト信徒に無限の歓喜と勇気とを供する主な理由は、この書に来世の存在と、その栄光とが最もはっきりと記載してあるからであると思います。
問 新約聖書の来世観は、実に御説のとおりでしょう。しかし、私が常に不審に堪えないのは、もし来世の希望が人の生涯を司る上で、それほど大切なものであるならば、何故に旧約聖書がこの事に就いて、沈黙を守るのでしょうか。
あなたは、モーゼやダビデやイザヤやエレミヤは、来世の希望を抱いて死んだと思われますか。
答 旧約聖書と来世観との関係は、いたって難しい問題です。ここにこの事に関して、お話しすれば、他の事を申し上げる暇(いとま)がなくなるであろうと思います。
しかしながら、一つ何よりも明白な事は、旧約時代の聖徒であっても、
ある希望を抱かずには、死ななかったということです。神は永遠から永遠にまで生きておられる者であることは、彼等も十分に信じていました(詩篇90篇等参考)。
そして、この神と常に離れないようにすることはまた、彼等の希望でした。「
我れ陰府(よみ)に降るとも、爾、彼処(かしこ)に在す」とは、彼等の信仰でした(詩篇139篇8節)。
そのように、旧約時代の聖徒は、私達今日のキリスト信徒のように、はっきりと天国を望むことは出来ませんでしたが、しかしながら彼等は、
神による生涯が永遠に死ぬものではないことは、知っていました。
ゆえに旧約書中往々にして来世の希望に近い言葉を発見するのです。有名なヨブ記十九章二十五節以下の言葉は、この類です。
我、知る、我を贖う者は活く。後の日に彼、必ず地の上に立たん。我が
この皮この身の朽(くち)はてん後、我れ肉を離れて神を見ん。
実に荘厳な言葉ではありませんか。また預言者が理想としたメシヤの王国なるものに関する彼等の預言に就いて考えてみても、これは現世の将来に就いて言っているようで、
実は現世を終えて後に来るべき新郷土の状態を謳歌しているものであることが分かります。
例えばイザヤ書の十一章六節にある「
狼は羊と偕に宿り、豹は小山羊と共に臥し、子牛、雄獅(おじし)、肥たる家畜(けだもの)は共にをりて小さき童子(わらべ)に導かれん」という言葉などは、使徒行伝三章二十一節にある、「万物の復興」が成った後に実行されることであると思います。
また預言者の理想なるものの性質をよく考えてみれば、その全てがメシヤの降世を待って、始めて実現するものであることが分かります。
旧約聖書の預言者は、この世が
進化して(今の人が言う意味で)彼等が理想とした王国となるであろうとは、決して思いませんでした。彼等は、そのためには、神の特別の働きがあることを信じました。
彼等がこの事を自覚していたかいなかったかは別問題として、彼等がメシヤの王国、即ち私達が今日望んでいるキリストの王国を、現世とは全くその基礎を異にするものとして描いたことは明らかです。旧約聖書の来世観に就いては、今日は先ずこの位にして御免を蒙りたいと存じます。
(以下次回に続く)