(「来世は有るか無いか」No.3)
(「その四 来世存在に関する偉人の証言」後半から)
答 私はグラッドストーンの死に様を聞いて、私の先師シーリー先生の事を思い出さざるを得ません。御承知かも知れませんが、彼は十余年間アマスト大学の総長でした。日本人で、彼の薫陶に与った者は、私の他にも幾人もいます。
私は目にグラッドストーンを見たことはありませんが、しかしシーリー先生に接して、グラッドストーンとは、こういう質(たち)の人であろうとたびたび思いました。学者で、実務家で、信仰家で、その円満偉大なこと、とうてい日本などにおいては見ることのできない人物です。
私はある夜、少し先生に求める所があって、突然先生の書斎に侵入しました。先生はちょうど、ある本を読んでおられましたが、いつになく喜んで、私を迎えられ、その読みつつあった本を卓上に置かれ、金縁の眼鏡を取り外して、その塵を払われ、静かに私が言おうとするところを聞いて下さいました。
その後、話頭を現世の事から神と来世の事とに転じられ、書斎の壁の上に掛けてあった、一老女の絵画を指さされ、小児のような、余念のない口調で言われました。
「内村君よ、あれは私の妻です。彼女は二年前に私共を去り、今は天国に在って私共を待っています」と。
言い終わって、先生の温顔を仰ぎ見れば、眼鏡の中の先生の大きな眼球は、一杯に涙でひたされていました。私は実にその時ほど明白に来世の実在を証明されたことはありません。
先生の大知識を以てしても、あのようにありありと、墓の彼方にうるわしい国が在ることを認められたのを見て、私は自分の小さな頭脳を以てたびたびその存在について疑いを抱いたことを、深く心に恥じました。
私は今日まで幾度となく、来世存在の信仰を嘲る人に出会いました。しかしながら、その人達はみな、人物から言っても、学識から言っても、シーリー先生に遠く及ばない人達でした。
先生が言われた事であっても、必ずしも一から十まで真理であるとは言えません。しかしながら、先生のような人物が、あのような確信を懐いていたことを思って、私の来世存在に関する信仰は、非常に強められます。
問 多分そうでしょう。私などは不幸にして、そのような人物に遭遇したことがありません。したがって、そのような問題については、今日まで至って冷淡でした。実に興味の多い御実験談をうけたまわり、誠にありがとうございます。
答 その他クロムウェルやビスマルクなどの偉人の来世観についてお話しすることは、至って面白い事ですが、それは他日に譲って、私は世界の大詩人が来世存在についてどう思っていたか、その事について少し聞いていただきたいと思います。
御承知のとおり、我が国では詩人と言うと、ただ文字を弄ぶ閑人(ひまびと)のように思われますが、しかし世界の大詩人とは、決してそんなものではありません。
詩人は偉人中の偉人です。
ギリシャ国が産した偉人の中で、詩人ホーマーほどの偉人はいませんでした。イタリア国の最大人物は、もちろんダンテです。英国に在っては、シェークスピアは、クロムウェルに優る人物でした。
また政治家としても、詩人の性を備えない者は、偉人とは言われません。いわゆる「散文的人物」なる者は、平凡の方に近い人物です。
それゆえに来世存在に関する偉人の言葉を聞きたいのであれば、世界の大詩人の言葉を聞かなければなりません。そして大詩人は一様に、来世の大希望者です。
いや、それに止まりません。来世を観ることが出来ずに大詩人となることは出来ません。詩人の天職は、殊に朦眼(もうがん)の世人に、来世の実在を明らかに示すことにあるのだと信じます。
問 詩人の御解釈は、御説の通りでしょう。どうぞ大詩人の来世観について、少しお話し下さい。
答 先ず、詩人ワーズワースからお話ししましょう。私は彼の詩集の中から、いずれを先に引いてお話しすれば良いのか、甚だ惑(まど)います。有名な、「霊魂不朽の歌」、「我等は七人なり」等は、多くの人に称賛されている作品です。
しかし、来世存在に関する彼の最後の証明とも称すべきものは、彼の老年の作である「夕暮の歌」(Evening Ode)であると思います。彼は夕陽が西山にうすづくのを見て、彼の感慨を述べて言いました。
Wings on my shoulder seem to play:
But, rooted here, I stand and gaze,
On those bright steps that heavenward raise
Their practicable way.
我が肩上の羽翼の動くを感ず。
然れども我れ尚ほ此処に止て遠く望めば、
玲瓏(れいろう)たる階段の天にまで達して、
之に到るの途を示すを見る。
(注)「玲瓏」:玉のように光り輝くさま。また、さえざえとして美しいさま。
どうですか。今や老詩人は、彼の羽翼(つばさ)を張って、天に昇ろうとするばかりではありませんか。
詩人臨終の歌として、最も勇壮なものは、米国の平民詩人ホイットマンの「死に臨んで余の霊魂に告ぐ」るという歌です。
Joy! shipmate---Joy!
(Pleas’d to my soul at death I cry;)
Our life is closed, our life begins;
The long, long anchorage we leave.
The ship is clear at last---she leaps,
She swiftly courses from the shore;
Joy! shipmate---Joy!
歓べよ、同船の侶伴(とも)よ、歓べよ、
(余は喜んで死に臨んで余の霊魂に斯く告げぬ)
我等の生命は終りぬ、我等の生命は始まりぬ、
永(なが)の、永の間の碇泊地を我等は去らんとす。
船は終に纜(ともづな)を断(たて)り、我心が飛立つなり、
彼女は岸を離れて速かに進むなり、
歓べよ、同船の侶伴よ、歓べよ。
ある人が、この歌を評して言いました。「余は近世の人にして、斯かる凱旋の声を揚げて、彼世(かのよ)に入りし人の他にありしを知らず」と。これは死の声ではありません。栄転の祝賀の声です。あなたはそのような希望を懐きたくはありませんか。
問 実に羨ましいです。詩人は酔っているのか、醒めているのか、私には判断がつきません。
答 また、詩人ブライアントを御紹介しましょうか。「死」は彼の特愛の詩題でした。彼は時には死の権威に圧せられて、死後の生命については歌うことが出来ませんでした。
しかしながら、詩人である彼は、死に呑まれはしませんでした。彼もまた死に打ち勝って、墓を破る信仰を持っていました。
彼は「二基の墓」と題して、ある無名の老夫婦の死後を弔った歌において、人生が
はかないことを述べた後で、死は万事を終わらせるという世間の普通の信仰を排斥して言いました。
‘Tis a cruel creed, believe it not;
Death to the good is a milder lot.
They are here, they are here----that harmless pair,
* * * *
Patient, and peaceful, and passionless;
As seasons on seasons swiftly pass,
They watch and wait and linger around
Till the day when their bodies leave the ground.
是れ惨酷なる信仰なり、これを信ずる莫(なか)れ、
死は善人に取っては安き境遇なり、
彼等は此処にあり、かの辜(つみ)なき夫妻は此処を離れず。
* * * *
静かに、忍んで、憤恚(いかり)と怨恨(うらみ)なく、
年月、駒の如く速(と)く走る間に、
彼等は且つ祈り且つ俟つて此辺を去らず、
彼等の肉躰が地を離れて出で来るまで。
大詩人の心に小児が有つような、このような信仰が有るのを見て、来世、復活の信仰が決して痴人の夢でないことが、いよいよ明白になると思います。
問 大詩人の来世観については、なお十分にうけたまわりたいとは存じますが、しかしだいぶ御高説も拝聴しましたから、後は少々あなたの御実験上から来た、御信仰についてうけたまわって、それで今日はもう御面倒を掛けまいと思います。
その五 生涯の実験から生じる来世の希望
答 私の実験と言っても、決して私一人の実験ではありません。人類全体の実験です。誠実を追求する者の、全ての人の実験です。真面目に同胞のためを思って人生を送ろうと思った人であれば、この希望を懐かない者はいないと思います。
現世は、私達の理想を行うには、あまりにも不完全な所です。もしこの世だけで万事が終わるのであれば、人としてここに生れて来たのは、最大不幸であると思います。世に辛いことと言って、理想を持って理想を行えないことほど辛いことはありません。
ところが全て高尚な人の生涯は、みなこの「満たされない理想」の生涯です。理想にかなう実物が存在するのが、この宇宙の法則であるのに、現世には私達の理想に応じる実物がありません。この事が、来世の存在の最も確かな証拠ではありませんか。
ゆえにゲーテは来世を望んで言いました。
凡て変り易きものは、単に比喩に過ぎず。
達すべからざるものは、此処に事実と成る。
口に言ふべからざるものは、此処に行はる。
限なく女らしきものは、我等を此処に引附く。
この世に誤解ということがあります。これは人生の最も恐ろしいことです。悲劇といい、惨事というものはみな、この誤解が事実となって、現れたものです。
天目山(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9B%AE%E5%B1%B1 )の悲劇もこれでした。源義経に腰越状(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B0%E8%B6%8A%E7%8A%B6 )を書かせたのもこれでした。
暗主がいて、奸物を忠臣と誤解し、忠臣を乱臣賊子と誤解したために、多くの家が滅びました。
また人生の最大苦痛の一つである家庭の紛争も、そのたいていは、この誤解から来るものです。父母に子の真偽を見分ける明がなく、孝が孝として受け取られずに、単なる外面の愛想を孝と信じることから、家庭に誠実は跡を絶って、ただわずかに形式的な礼儀だけが残るようになります。
誠実は必ず世に認められるであろうという私共の幼時の信仰は、歳月を経るにしたがって、全く破壊されてしまいます。誠実は、この世に在っては同国人にも、君にも、父母にも、友人にも、必ず認められるとは限りません。いや、多くの場合には、その正反対が事実です。
ソクラテスがアテネ人に殺されたこととか、ダンテがフローレンスの市(まち)から追われたこととか、ラマルチン(
http://en.wikipedia.org/wiki/Lamartine )がフランスから逐放されたことなどは、決して珍しい事柄ではありません。
人は国を愛すれば愛するほど、その国の人に憎まれるように見えます。世に辛(つら)いことと言って、人の善を思って、その人に憎まれることほど辛いことはありません。しかしながら、これは人生の常であって、少し真面目に世を渡ろうと思う者は、たいていはこの辛い実験を経過します。
このような時に、何が私共の慰めとなるでしょうか。誰が私共の心を本当に見てくれるでしょうか。
父母ですか、兄弟ですか、友人ですか、ああ、情けない者は人間です。人類総体がその知恵を一所に集めても、多くの場合においては、人の真偽を判別することは出来ません。
しかし、もしこの世が私共の有(も)つ唯一の世であるならば、生命とは何とつまらないものではありませんか。この時に当たって、ヨブと共に叫ばない者が誰かいるでしょうか。
我れ知る我を贖ふ者は活く。後の日に彼れ必ず地の上に立たん。
我がこの皮、この身の朽はてん後、我れ肉を離れて神を見ん。
(ヨブ記19章25、26節)
私は世に誤解された時に、最も明白に来世の存在を認めました。私は、骨肉友人の誤解を最も辛く身に感じた者です。私は、その誤解を取り去るために、私が知っている全ての方法を尽しました。しかし、それが全く無効であることを知って、一時は非常に失望しました。
しかしながら聖書を読み、殊に黙示録を読んで、そのような誤解の生涯が、キリスト信徒の生涯であることを悟り、それと同時に神が私共に、
より善い国を備えて下さっていることを知って、私の涙は始めて拭われました。
私は眼に涙を湛(たた)えずに黙示録の第二十一章を読んだことは、未だかつて一度もありません。
神、彼等の目の涕(なみだ)を悉く拭ひとり、復(ま)た死あらず、
哀み痛み有ることなし。蓋(そは)前事すでに過去ればなり。 (4節)
ああ、これが有れば足りるのです。これが有れば、何と思われても良いのです。国賊として苦しめられても、乱臣として退けられても、不孝者として疑われても、偽善者として遠ざけられても、これが有れば、私に痛み哀しみはありません。
来世の希望が私に供せられた時に、私は始めて息をついたのです。この時に始めて、私は人らしい人となったのです。その時から宇宙も人世も、私には楽しいものとなりました。その時に私は詩人ホイッチャーの句を借りて歌いました。
我れ最早(もはや)懼れず、
曇りし自然の面影(おもかげ)も、今は笑を含みけり。
限りあるもの、朽るもの、眼に見ゆるものすべて皆な、
触るゝ聖霊(みたま)の羽音して、
希望の讃歌唱へけり。
私から来世の希望を奪う者は、私の生命を奪う者です。これがなければ人生は、私には無味のものとなります。私の「存在の理由」は、確かに「来世の存在」にあります。
問 そのようにご説明いただくと、私はもう何とも御質問のしようがありません。ただ私は、まだ十分にあなたのように、来世を望むことが出来ないのを、残念に思うまでです。
答 それはあなたの御生涯が、全体に平坦であったからでしょう。夜が来なければ、森羅万象が眼に映らないように、辛い生涯の経験に遇わなければ、来世は明らかに見えるものではないと思います。しかしあなたにも、いつかその
辛い嬉しい時が到来するであろうと思います。
答 ありがとうございます。今日の御説明によって、他日大いに心に悟ることがあろうと思います。
問 私もそう望みます。ロングフェローの詩に、「昼間月を見て、その要を認めざりしが、夜に入ってより、その光明の有難さを知った」という事が書いてありますが、私のふつつかな来世に関するこの説明も、後日に至って、何か御用に立つことがあるかも知れません。 サヨナラ。
「来世は有るか無いか」完