永遠の刑罰と永生
明治36年11月19日
問 来世は有るとして、人は誰でもこれに入ることが出来ますか。
答 それは至って難しい問題であって、私も未だその事に就いて、確信に達したとは申し上げられません。聖書にも、この事ははっきりとは示していないようです。
エゼキエル書の十八章四節に、「
罪を犯せる霊魂は死ぬべし」とあるのを見ると、聖書は悪人の絶滅を示すようにも見えますが、
またマタイ伝の二十五章四十六節にあるキリストの言葉に、「
此等の者(即ち不義を行う者)は窮りなき刑罰に入り、義者は窮りなき生命に入るべし」とあるのを見れば、義者も不義者も、その永存の一事においては、同じ事であるようにも見えます。
問 それでは、人が来世の恩恵(めぐみ)を受けるか受けないかは、何によって別れるのですか。
答 その事に就いては、キリスト教は明白な答えをもっています。悪人は死ぬと同時に空亡に帰する者であるか、あるいはその存在を続けて、永久の刑罰を受ける者であるか、
その解決に就いては、私共は聖書の明白な証明をもたないとしても、悪人が来世に入っても、
生命らしい生命を受けることが出来ないこと、義人には、必ず来世の報償があって、彼が現世において受けることが出来なかった勝利の冠を神の天国において、戴くことが出来ることに就いては、聖書の預言に少しもあいまいな所はありません。
悪人が望むことが出来るのは、絶滅でなければ永久の刑罰です。二者いずれにしても、彼の最後は暗黒です。絶望です。神の道に従わない者には、未来永劫まで待っても、好い事が来るはずがありません。
問 しかし、もし悪人に来世がないとすれば、彼は反って幸福な者ではありませんか。絶滅は、反って彼が望むところであって、彼にこの希望、即ち絶滅の希望があるからこそ、彼は彼の罪悪を続けるのではありませんか。
答 そうです。それですから、悪人の死後の状態に就いては、これを不明に付しているのかも知れません。
絶滅か、永久の刑罰か、恩恵に富んでおられる在天の父の心から推し量れば、彼は如何なる悪人といえども、これに永久の刑罰を加えるに忍びないのかも知れません。
実に「悪人絶滅」の信仰は、神を愛と観て起こった信仰です。しかしながら、神は愛だけではありません。彼はまた正義です。そうです。神の愛は、正義の上に建つ愛です。
そしてもし、正義が正義である以上は、神がもし悪人を永久に罰されるとしても、彼は決してある人が言うような、不人情の神ではありません。
人は生れながらにして、彼の内に、永久に継続すべき霊性があることを知っています。そして彼が罪を犯す時に、彼は彼が自己の本性に戻(もと)ることを為しつつあることを知っています。
罪は、決して小事ではありません。罪は単に
不利益ではありません。また
弱点でもありません。罪は人に取っての最大事件です。神の威厳を犯すことです。自己の霊性を汚して、これに致命傷を負わせることです。
私達が悪事と知りつつ悪事を為す時に、かの一種言うことの出来ない恥辱と絶望の念とを感じるのは、何故でしょうか。それは即ち私達が、その時に私達が受けるべき大特権を放棄したことを、自覚するからではありませんか。
悪人の最後は絶滅であるかも知れません。しかしながら、これは多くの人が願うような、
苦痛のない眠るような絶滅でないことだけは、私達の良心に問うてみても、また神の聖書に照らしてみても(マタイ伝13章41、42節等参考)明白であると信じます。
絶滅と言い、永久の刑罰と言っても、詰まる所は同じです。神の聖前から追われることです。
達し得るはずの天国の栄光を示されて、これに達し得ない非常な苦痛を感じることです。
もし罪にこの刑罰が付随していないならば、罪は罪でなく、神は神でありません。罪の義罰を思考の外に置いて、神の愛を悟ろうと思う者は、終に神の愛を悟り得ない者です。
問 そうであれば、あなたもやはり来世における悪人の絶滅をお信じになるのですか。
答 そうですね。もし私が悪人の絶滅を信じるのであれば、それは
刑罰としての絶滅を信じるのです。そして刑罰としての絶滅は、絶滅の苦痛を感じない絶滅ではありません。
即ち仏教で言う涅槃(ねはん)のようなものではありません。神の聖なる憤りの実現です。即ち永久に存在すべき性を備えられた者が、神の義罰を申し渡されて、死刑に処せられることです。
問 私はどうしても、恩恵(めぐみ)ある神が、たとえ罪人であるからとしても、彼にそのような厳罰を当てられるとは信じられません。
答 そうですね。もし神がそのような厳罰から免れる道を私達のために備えておいて下さらなかったならば、私達は神の愛を信じることが出来ないかも知れません。
しかしながら、罪とはそれほどまでに恐れるべきものであるからこそ、神はキリストにおいて、非常な恩恵を現されたのです。「
如此我儕主の畏るべきを知るが故に人に勧む」(コリント後書5章11節)。
福音が福音であるのは、私達をそのような厳罰から救ってくれるからです。罪が罪であること、即ちその生きている霊魂から永久の生命を奪って、これを神の厳罰に渡すものであることを知らない者には、キリストの福音は、それほど有り難い福音ではありません。
福音の有り難さは、罪の恐ろしさと同比例に増すものです。
問 私にはどうもあなたのように罪をそれほど痛酷(つうこく)に考えることは出来ません。あなたは、人に神の恩恵(めぐみ)をなるべく深く悟らせようとして、罪なるものを出来るだけ黒く描こうと努めておられるように思われますが、いかがですか。
答 私はそうは思いません。こう言う私さえ、罪の恐ろしさを感じ足りないと思います。そして罪の恐ろしさを十分に知ろうと思えば、正義のうるわしさを十分に悟らなければなりません。
暗闇は、光明に対してだけ、十分に知覚することの出来るものです。私達罪悪の中に成長した者には、罪悪が習慣性となっていて、それが実に憎むべきもの、恐るべきものであることが分かりません。
生命が何であるかを知って御覧なさい。死の怖さが分かります。そして生命の神だけが十分に生命が何であるかを御承知ですから、彼は非常手段を尽くして、即ちその愛子までをこの世に送って、私達を死から救う途を設けられたのです。
問 しかしあなたは、どうして神がキリストに由って与えて下さる生命が、永久不滅のものであることを知りますか。聖書がその事に就いて、何と言おうと、それだけでは私共を満足させることは出来ません。
答 生命は、生命の証明者です。死物は生物が何であるかを知りません。キリストにおいて現れた永生に接して御覧なさい。あなたにも、それが永生であることが分かります。
「
神の子を信ずる者は、其裏に此証あり……………神は窮なき生を以て、我儕に賜う。此生は、乃ち其子に在り。是れ其証なり」(ヨハネ第一書5章10、11節)。
私がこう申し上げると、あなたは多分私を「独断」だとお責めになりましょう。しかしながら、もしこの事に就いてあなたが私から哲学的証明を御要求にまるならば、私はあなたをカント(
http://en.wikipedia.org/wiki/Immanuel_Kant#Influence_on_modern_thinkers )の哲学書にご紹介するより他に途はありません。
カントの系統を引いている、ドイツの神学者ボベルミンという人が近頃著した「キリスト教信仰論」において述べた言葉は、この問題に対する私共の最終の答弁です。
信仰は科学的又は哲学的証明の上に立つ者に非ず。信仰の基礎は
神の自顕にあり。信仰はただ信ぜざるを得ざるのみ。
信仰は迷信ではありません。しかしながら、科学的証明を要するものではありません。宗教的信仰は、神からいただく霊的生命の活動であって、これがあって、その主動者である生命があるのを、私達は確認するのです。
問 そうしますと、この生命を身に受けない者は、これに就いて何も知ることが出来ないのですか。
答 そうとは限りません。
神の子をもつ者は生を有ち、その子を有たざる者は生を有たずと聖書に書いてあるとおり、キリストを心の中に有たない者は、永生が何であるかに就いて、自ら実験することは出来ません。
しかしながら、もしその人に公平な観察眼があるならば、彼はこの新生命が他人において働く、その結果を目撃することが出来ます。
樹は其実を以て知らると申します。樹の生命そのものを知ることは出来ませんが、それが結ぶ実によって、その樹が生きていて、死んではいないこと、また善い樹であるか、悪い樹であるかが分かります。
生命もまた、これを受けた者の行動(はたらき)によって、それが有るか無いか、また如何なるものであるかを、やや判断することが出来ます。
問 その永生の実とは、どんなものですか。
答 これを実というか、または近世の生物学の術語を借りて、「生命の徴候」といっても良かろうと思います。そして、それが何であるかは、ガラテヤ書5章22節以下に記してある、パウロの言葉がよく言い尽くしていると思います。
霊(みたま)の結ぶ所の果(み)は仁愛、喜楽、平和、忍耐、慈悲、良善、
忠信、温柔、遵節(じゅんせつ)
これです。そしてこれは、何も信者が努めて行うものではありません。もしそうならば、それは生命ではなくて、世に言う道徳です。生命の結ぶ果ですから、これは自然に努力せずに出て来るべきものです。
そしてこれらの諸徳が、水が泉から湧き出るように、信者から流れ出てくる時に、私共はその人の中に、神から来る生命が宿ったことを悟るのです。この大問題に関する、その他の御質問は、他日に譲っていただきたいと思います。
今日はこれで御免を蒙ります。サヨナラ。
完