信仰と健康
明治36年11月19日
宗教はもともと心の事ですから、これを信じたからといって、薬が効くように、直ちに身体に効くべきはずのものではありません。
もちろん身体も霊魂と同じく、神が造られたものですから、霊魂を癒して下さる神に、身体を癒すことが出来ないという理由はありません。神はもしその御心に適えば、どのような病でも、直ちにこれを癒されるのは、聖書の所々に記されている通りです。
しかしながら、今の時に当たって、神が直ちに身体の病気を癒されないのは事実です。
これは何も、神がこの事を為し得ないからではありません。これは、神がこれより以上の事を為される為です。
一時肉体の病を癒されても、人間は一度は死ななくてはなりません。しかし、その霊魂を癒されれば、彼は永久に生きることが出来ます。神は永久に人を救うために、今の時に当たっては、滅多に奇跡によって肉体の病を癒されません。
肉体が癒されるのを見るまでは、神の存在を信じないなどと言う人は、肉体が癒されるのを見ても、信じない人です。神は心で見るのでなければ、信じることの出来るものではありません。神は霊であるから、これを拝する者は、霊と真(まこと)を以て拝しなければならないと聖書に書いてあります。
それでは宗教上の信仰は、肉体の健康に何の関係もないかと言うと、それは決してそうではありません。肉体と精神との関係は、非常に緻密(ちみつ)なものですから、二者いずれかが健康に復して、他のものがその利益を受けない理由はありません。
殊に精神は内であって、肉体は外ですから、内が治れば、外が健全な感化を受けないはずはありません。今の時に当たっては、神がもし私共の肉体を癒そうとすれば、この方法を取られるに相違ありません。
即ち直ちに外なる肉体を癒されずに、先ず内なる霊魂を癒し、その後に内から外を癒されるに相違ありません。これは実に根本的な平癒であって、そのように癒されてこそ、病は反って私共の永久の利益となるのです。
それだけではありません。よく人間の病の原因を調べてみれば、これはもともと精神の不調和から出たものです。人類全体が堕落に沈んでいる今日でも、もしここに精神的に健全な人がいるとすれば、その人が身に受ける病は至って僅少(わずか)です。
誰も、梅毒病が道徳的疾病であることを疑う者はいません。そして梅毒から来る疾病の多いことは、実に非常です。種々の神経病、眼病、皮膚病、胃病、虚弱症から来る肺病の多くは、直接または間接に、梅毒病から来るものです。
もし梅毒の根を絶やすことが出来れば、文明人種の疾病の半分以上を絶やすことが出来ます。そして国民の精神を癒さずには、梅毒病を根絶することが困難であることは、誰でもよく知っています。
キリスト教が肉体の清潔を唱える結果として、梅毒病の蔓延を防ぐだけでも、その衛生上の利益は、実に非常なものであると思います。
しかしながら、何もこの道徳病だけに限りません。心が治まらないために起こる疾病は、他にも沢山あります。誰でも身体に対する憤怒の害を知っています。
憤怒は、直ちに神経を突き、心臓を刺激し、血液循環の不同を来し、消化作用を害し、そのために身体全部を不調に陥れるものであることは、誰でもよく知っています。
ある心理学者は申します。憤怒は、身体にある一種の毒素を分泌させ、その害毒を全身に及ぼすものであると。多分そうでしょう。いずれにしろ憤怒が健康に害のあることは、よく分かっています。虚弱な人には、憤怒は直ちに発熱を生じさせ、それによって既発の疾病の増進を促すことはたびたびです。
肉体の健康のために、平静な精神ほど有益なものはありません。怨恨なく、不平なく、常に歓喜の念に溢れる者は、その肉体は病んでも、病苦を多く感じない者です。
欲しいものは、心の平和です。これがあれば、健康の第一の要素を得たのです。「
心の快楽は、良薬なり。霊魂の憂愁は骨を枯らす。」(箴言17章22節)。これは、誰もが経験する事実です。
また生活の心配が、多くの疾病の原因となっていること、その事もよく分かっています。餓死する心配、競争に負けて破産する心配、災難に遭って、路頭に迷う心配、これらの心配が、幾多の神経病と、胃病と、心臓病との原因となっていることは、医者の診察を待つまでもなく明らかです。
たいていの人は、憂世(うきよ)に棄てられた棄児(すてご)のような心持をして世渡りしています。彼等は天に愛なる父様がおられて、一羽の雀さえ、その許可なしには地に落ちないことを知りません。
彼等は、衣食の事は人たる者の苦慮すべき問題でないことを知りません。彼等は、人類は「王の子」であって、衣食以上の問題に、彼等の全力を注ぐべき特権を有(も)つ者であることを覚(さと)りません。
衣食のために思い悩むことは、万物の霊長である人の本能に戻(もと)ることであって、その結果として彼の肉体にも、大きな錯乱を生じ、多くの病を引き起こすようになります。
信仰は、直ちに身体の病を癒しません。しかしながら、直ちに心の錯乱を治すものですから、そのために終には身体までが健康になるのです。
信仰は第一に心の統一を来します。神を信じない者は、自家撞着(じかどうちゃく)の人です。彼の右と左とは一致しません。彼の情と道理とは、常に相争っています。
彼は、為してはならないと信じることをしています。為すべきことをすることができません。彼は主義を持っても、これを実行することが出来ません。彼は常に薄志弱行(はくしじゃっこう)であると自分を責めています。
彼は聖書にいわゆる「相争う家」です。彼の敵は、実は他人ではありません。彼自身です。そのように内心において相乖離する彼の身に、本当の健康なるものが有るはずはありません。彼は内心の分離のために、日夜苦悶する者です。
ところが、信仰によって、この分離は癒され、調和は人の心に臨みます。彼の目的は、今は一つになります。今は主義と利益とは、彼の内にあって相せめぎません。
彼に彼の理想を断行する勇気が与えられて、彼は今は実行の人となります。彼の情は清められて、彼は今は想ってはならないことを想わないようになります。
信仰は、直ちに財産を作りません。また、身体を丈夫にしません。しかし、信仰は心の全ての機能を統一します。そして内心の統一は、新希望を生じ、果断勇行となって、外に現れます。
憂鬱な人が、神を信じることによって快活な人となるのは、全くこのためです。因循姑息な人がキリスト教を信じることによって、直ちに開発主義の人となるのも、全くこのためです。
宇宙的観念を抱くとか、天然と交わるとかは、心の中に苦悶を懐いて常に不平に耐えない者には、とうてい出来ることではありません。
内に縛られ、心の中に常に内乱を宿していては、進取も開発もあったものではありません。
信仰のない志士とか論客とか言う者は不平家です。心に平和がないので、常に生血(いきち)に欠乏して、室内にこもって、青ざめた顔色とくぼんだ眼球とで世界の万事に就いて、常に不満を述べ立てる者です。
(以下次回に続く)