(「信仰と健康」N0.2)
信仰は第二に、神に頼る心です。そして頼る心は、受ける心です。私達は、人と社会に対しては主動的でなければなりませんが、絶対的実在者である神に対しては、受動的となるより他の態度に出ることは出来ません。
ところが、信仰のない人は、この受動的態度に立つことを知らない人です。彼等はただ社会から要求されるだけであって、これに応じるための能力を得る途を知りません。
神を知らない者は、彼が自己の内に蓄えた、わずかばかりの能力の他には、同胞に分かつための慰藉の材料を有(も)ちません。そして社会の要求は、ますます多くなるので、彼は終にこれに応じることが出来なくなって、その結果厭世猜疑の人となります。
実力以上の責任を要求されることほど辛(つら)い事はありません。しかしながら、神を知らない人の生涯は、全てこの辛い生涯です。彼は、義務責任の要求をされて、彼の国家に責められます。彼の父母兄弟に責められます。
そして彼は、これに応じるために、弱い彼の内に蓄えたわずかばかりの能力を有(も)つだけです。無限の要求に有限の能力で応じるのですから、彼は厭世家になりたくないと思っても、ならざるを得ません。
ところが信仰は、私達に新たな宝物(たから)の山を開いてくれます。人が人であることの特権は、直ちに宇宙の主宰である神に接して、彼から直ちに能力を得ることが出来ることです。
人という人は、それが同国人であるとか、骨肉であるとかにかかわらず、ただ得ることを知って与えることを知らない者ですが、神はこれとは正反対で、与えることを知って、得ることを知らない者です。
神は私達に万物を与えて下さる者であって、私達は神に何物をも奉げることは出来ません。神が好まれるものは、私達の砕けた、小児のように神に依り頼む心です。そしてもし、この心を以て神に近づけば、神は私達が願い求める全ての良い物を、私達に与えて下さいます。
そして、父なる神のこの恩恵に浴して、私達は人からどんなに無慈悲な要求を受けても、喜んで全てこれに応じることが出来ます。
こうして私達は無尽蔵の富を背後に控えた、富豪の子供のような者となって、あるいはこんこんと湧き出て止まない泉を水源として有する鉄管のような者となって、人に汲まれれば汲まれるほど、愛と好意と同情との清水を、何の苦情をも唱えずに、喜んで供給することが出来るようになります。
神に頼らずにこの無慈悲な世を渡ることは、実に辛いことですが、しかし神を信じてこれに対すれば、この世はそれほど辛い所ではありません。
「キリスト信徒とは、全知全能の神を信じる紳士である」(The Christian is God Almighty’s gentleman.)という言葉がありますが、神が真に信じる結果が、人に紳士的態度を供することは事実です。
彼は信仰によって、狡賢(ずるがしこ)い性質を脱します。彼は、人を疑わなくなります。人の悪を思わずに、善を信じるようになります。彼は、迫らない、憤らない人となって、繁雑を極めるこの社会に立って、平静な心を持ち続けることが出来るようになります。
そしてそのような心の状態は、実に身体の薬ではありませんか。如何なる医師でも、彼の患者の全てが、そのような心の状態に在ることを望まない者はいないでしょう。
平康(へいこう)と言い、安寧(あんねい)と言い、全て長寿健全の原因となるものは、この平らかな、満ち足りた心の中に生じるものです。
全知全能の神と、交通を開くことなく、この日々に進み行く複雑な世に処しようとする者は、終には世に忙殺され、冷殺されるのは、分かり切ったことです。
信仰は第三に、精神の活動ですから、信仰を得て人は、その身の中心において、新生命を得るに至ります。肉体と精神とは、名こそ違いますが、実は同一物の両面に他なりません。
同一の生命が、外に現れたものが肉体であって、内に凝(こ)ったものが、精神です。そして神は、生命の粋(すい)の粋なる者ですから、人の上に働かれる時に当たっては、直ちに人の精神に働かれます。
私達人類は、今は神を物質的な奇跡において認めようとはしません。私達は、私達の神に似た所において、即ち私達の精神において、神に接し、彼から新たな生命(いのち)と能力(ちから)とを得ようとします。そして神をここに求めて、彼は決して有名無実なものでないことが分かります。
彼は実に「
我が顔の助」(詩篇42篇11節)です。彼は即ち、私の衰えた顔色に健康の血紅(けっこう)を漲(みなぎ)らせる者です。
キリスト信者は、神を単に霊魂の救主としてだけ認めるのではありません。神はまた肉体の救主です。神は霊魂を活かして、終に死んだ肉体をも活かされるというのが、いわゆる復活の教義です。
そして私達は、今この世において、肉体を不朽にするだけの霊の能力を受けませんが、しかしこれに健康を与え、その諸器官を活動させるに十分なだけの能力は、確かにこれを神から受けます。
これが即ち、パウロの言う「
霊の質(かた)」(コリント後書1章22節)であって、私達信者は、この能力の少量を現世において感じるので、来世において同一の能力を大量に受けて、死んだ肉体までも更生されることを望むのです。
この理由から考えてみると、いわゆる信仰治療なるものが、決して理由のない事ではないことが分かります。
信仰治療も、確かに疾病治療の一つです。人の生命には、肉体的と霊的との両面がありますから、肉の病を治すに当たっても、肉的方面からばかり治療を加えたのでは足りません。
人が霊である以上は、霊に新生命を供することは、肉を癒す一つの方法であることは、言うまでもありません。近世医学の一大欠点は、確かにこの霊的方面を無視することです。
もし信仰だけでどのような病をも癒すことが出来ると言えば、それは確かに言い過ぎでしょうが、しかし、空気と食物と薬と手術とだけで、霊的動物である人間の全ての疾病が治るものであると言う、近世医学の前提もまた、言い過ぎの謗りを免れません。
現に医者が匙(さじ)を投げた病人で、精神の持ちようで直った者は、幾人でもいます。また西洋諸国において、不治の患者と見なされる者を、信仰治療病院に収容して全癒に至らせた実例も沢山あります。
医者も薬ももちろん神が造られたものですから、これを用いても決して罪悪ではありませんが、しかし信仰の治療的効能を認めない者は、未だ人間の構造を十分に究めた者とは言えません。
そういうわけで、私共伝道師は、霊魂のためにだけキリストの救いの道を人に勧めるのではありません。私共はまた、彼の肉体が健全になるためにも、これを勧めます。
キリストが世に現れられた後の今日に当たっては、誰も心の憂慮によって、身体を苦しめる必要はありません。彼は先ず、心の平安だけでも、十分に得ることが出来ます。
彼はまた、必ずしも近世の医術にだけ頼って、彼の身体の健康を計る必要はありません。彼は、高価な診察料と、薬価とを払うことなしに、天の霊気に接して、新たなエネルギーを心と身とに受けることが出来ます。
昔の預言者が叫んで言った言葉は、今に至っても真理です。
噫(ああ)、汝等渇ける者よ、悉く水に来れ。金なきものも来るべし。汝等
来りて買ひ、求めて食らへ。来れ、金なく価なくして葡萄酒と乳とを買
へ。何故に糧(かて)にもあらぬ者のために金を出だし、飽くことを得ざる
者のために労するや。
我に聴従(ききしたが)へ。然らば汝等美物(よきもの)を食ふを得、脂(あぶ
ら)をもて其霊魂を楽まするを得ん。耳を傾け我に来りて聞け。汝等の霊
魂は活くべし。
(イザヤ書55章1〜3節)
キリストはまた言われました。
我が爾曹(なんじら)に曰ひし言は霊なり。生命なり。
(ヨハネ伝6章63節)
キリストの言葉は、確かに肉体をも活かすに足りる能力(ちから)です。
「信仰と健康」完