(「ヨブ記(第1章〜7章)」No.2)
ヨブ記
内村鑑三 注
第1章
義人の繁栄 ◎彼の敬神 ◎天上の会議 ◎地上の変災
1.ウヅの地に人あり。其名をヨブと称(い)へり。其人完全にして正義(ただし)く、神を畏(おそ)れ、悪を遠(とおざ)けたり。 2. 彼に七男三女生れたり。
3. 彼の財産は羊七千、駱駝三千、牛五百くびき、牝驢馬(めろば)五百なりき。彼に亦夥多(おおく)の僕ありき。彼は実に東方の中に在て最も大なる者なりき。
4. 其子等互に相往来し、各自、其日に至れば宴(ふるまい)をその家に設け、その三人の姉妹をも招きて、彼等と飲食を共にせしめたりき。
5. 而して饗宴(ふるまい)の果(は)つる毎に、ヨブ必ず彼等を招きて之を潔(きよ)め、即ち朝早く起きて、彼等の数に循(したが)ひて燔祭(はんさい)を献(ささ)げたりき。是はヨブ我子等罪を犯して、心に神を忘れたらんも知るべからずと謂(おも)ひてなり。ヨブの為す所、常に此の如し。
6. 一日、神の子等来りてエホバの前に立てり。サタンも亦来りてその中に在りき。
7. エホバ、サタンに言ひ給ひけるは、汝、何処より来りしやと。サタン、エホバに応(こた)へて言ひけるは、地を行きめぐり、此処彼処(ここかしこ)を経あるきて来れりと。
8. エホバ、サタンに言ひ給ひけるは、汝、心を用ひて我が僕ヨブを観しや、彼の如く完全にして、且つ正しく、神を畏れ悪を遠ざくる者は、世に非ざるなり。
9. サタン、エホバに応へて言ひけるは、ヨブ豈(あに)得る所なくして神を畏れんや。
10. 汝、彼と彼の家と彼の一切(すべて)の所有物(もちもの)の周囲に蕃屏(まがき)を設け給ひしに非ずや。汝は亦彼の手の為す所を悉く祝福(めぐ)み、其産を地に増殖(ふや)し給ひしに非ずや。
11. 然れば今汝の手を伸ばし、彼の一切の所有を撃ち給へ。彼必ず汝の面に対(むか)ひて汝を詛(のろ)はんと。
12. エホバ、サタンに言ひ給はく、視よ彼の一切の所有を汝の手に任かす。唯彼の身に汝の手を接(つ)くる勿れと。サタン即ちエホバの前より出行けり。
13. 一日ヨブの子供等、その第一の兄の家にて物食ひ、酒飲み居たりし時、 14. 使者あり、ヨブの許に来りて言ふ、牛は耕耘(こううん)に従ひ、牝驢馬はその傍に草食ひ居りしに、 15. シバ人襲ひて之を奪ひ、刃をもて少者(わかきもの)を打殺せり。我れ唯一人逃れて汝に告げんとて来れりと。
16. 彼なほ語(ものい)ひ居る中に又一人あり、来りて言ふ。神の火天より落ちて羊及び少者(わかもの)を焚(や)きて之を殺せり。我れ唯一人遁(のが)れて汝に告げんとて来れりと。
17. 彼なほ語(ものい)ひ居る中に又一人あり、来りて言ふ。カルデヤ人三隊に分れ駱駝を襲ひ之を奪ひ去れり。然かり、之に止まらずして刃を以て少者を殺したり。而して我唯一人汝に告げんとて遁れ来れりと。
18. 彼尚ほ語ひつゝありし中に又一人あり。来て言ふ、汝の子女(むすこむすめ)等、その第一の兄の家にて物食ひ酒を飲み居りしに、
19. 荒野の方より大風吹き来りて家の四隅を撃ちければ、夫(か)の若き人々の上に落ち来りて彼等は皆な死ねり。而して我れ唯一人汝に告げ知らせんとて逃れ来れりと。
20. 是に於てヨブ起上(たちあが)り、外衣(うわぎ)を裂き、髪を薙(さ)り、地に伏して拝し、言ひけるは、
21. 我れ裸にて母の胎より出来(いできた)れり。
亦裸にて彼処に帰往(かえりゆ)かん。
エホバは与へ、エホバは亦取り給ふ。
エホバの聖名は讃美すべきかな。
と。
22. 総て此事に関してヨブは罪を犯さず、神に対(むか)ひて愚かなる言を発せざりき。
辞 解
(1) 「ウヅの地」 それが何処であるか、確定するのは難しい。しかし、本書全体の記事から推定すると、それが砂漠に面していたこと、またそれがユダ国の東方に位置していたことは明らかである。
これをアラビア砂漠がヨルダン窪地の東方において、シリヤの沃原と接するある地点に位置していたものと見て、間違いないであろう。
◎ 「ヨブ」 原語のIyyob は、種々の意味に解せられる。あるいは「迫害された者」、あるいは「還(かえ)った者(悔ひて神に)」、あるいは「反対を招きやすい者」という意味であるという。
そのいずれが真であるのか、今では究め難い。ただしヨブが戯作的人物ではなくて、歴史的人物であったことは、エゼキエル書14章14節、ヤコブ書5章11節等によって明らかである。
◎ 「完全にして且つ正義」 もちろん人間の眼から見ての完全正義である。
◎(3) 「東方」 著者の居住地から見て東を指している。ヨルダン河以東一帯の地を言うのであろう。
◎(4) 「其日」 誕生日である。3章1節
◎(5) 「燔祭を献げたり」 古代における潔清(きよめ)の式である(創世記8章20節参考)。
◎(6) 「神の子」 あるいは「能力(ちから)の子」「能力ある者」と解することが出来るであろう。人間以上の実在物で、天使を指す。ヨブ記には、この語が多く使われている。
◎ 「サタン」 敵または
反対者という意味である。後世に至って、
敵なる悪魔と称せられる(ペテロ前書5章8節)。彼は天使の堕落したものである(ルカ伝10章18節)。人の罪を神に訴える者である。
◎(10) 「藩屏(まがき)を設け」 擁護することである。
◎(15) 「シバ人」 アラビア人の一種族である。掠奪で有名である。今のベドウィン人種のようなものであったのであろう。
◎(16) 「神の火」 雷である。
◎(17) 「カルデヤ人」 ユーフラテス河の東方に住んでいた民である。シバ人と同じく、掠奪に従事していたと見える。
◎(19) 「荒野の方より大風吹来り」 今のいわゆる Simoon (
http://en.wikipedia.org/wiki/Simoon )の類である。砂漠から吹いてくる疾風である。
◎(20) 「外衣を裂き、髪を薙(そ)り」 愁傷のしるしである。
◎(21) 「彼処に帰往かん」 再び母の胎に入ろうという意味ではなかろう。来た所に帰ろうという意味であろう。「
汝は塵なれば塵に帰るべし」(創世記3章19節)の言葉を参照せよ。
意 解
◎ 義人がこの世に在って富貴の報償に与る、その時には彼に懐疑はなく、苦悶もない。内は外と和し、地は天と合し、万物は麗色を帯びて、歳月が流れることは、水が大洋に流れ込む如くである。
この時人は言う。天道は是であると。しかし、神の奥義はそのようにして終わることが出来ない(1〜5節)。
◎ 羊七千、駱駝三千、牛一千、牝驢馬五百、ヨブの財産は何と大きいことか。これは今、彼が神の恩恵のしるしとして、誇りかつ感謝するものである。
彼の神は、今は野の神である。山の神である。檻(おり)に牡山羊が憩うのを見て、山に牝驢馬が逍遥するのを見て、彼は天地の神を讃美した。そのようにして、東方の人の中に在って最も大きなヨブは、未だなお、信仰の嬰児であった。
彼は、牛と羊と駱駝に富んでいたので、宇宙の神の寵児であると信じた。しかし神は、ヨブが神に愛されたいと欲するよりも、
より深くヨブを愛した。これがここに、本書の悲劇が開かれるゆえんである。(1〜5節)
◎ 繁栄は、彼の身を纏(まと)った。しかし、繁栄の中に彼は一種の恐怖を懐いた。彼は、彼と彼の子女とが、富貴を楽しむ結果、終に神を忘れ去るようになることを恐れた。
ゆえに彼は、饗宴が終わるごとに、必ず彼の一家のために、清めの式を司った。彼はそのようにして、神の怒りを宥(なだ)めようとした。そして彼の家に、その恩恵が絶えないようにと祈った。
これを敬神と称することが出来るなら称しなさい。しかしこれは、恐怖と利欲とをまじえない敬神ではない。信仰の嬰児であるヨブは、さらに純正な敬神を学ぶ必要があった。(5節)
◎ ある日天上で会議が開かれた。天使等は神の前に立って、人事について奏上していた。人の罪を訴える者がいる。その名をサタンという。彼はまた、人の暗黒的方面について神に告げようとしていた。
エホバ神が彼に問うて言われるには、私は、特に私の僕ヨブについて問おう。あなたは彼について何か悪事を訴えるところがあるかと。
サタンはエホバに答えて言った。彼ヨブの信仰なるものは、実利的である。今、彼の財産を奪ってごらんなさい。彼は必ず目の当りあなたを呪うでしょうと。
サタンの眼に映じる善事は、全て悪に基づくものである。敬神は利益のためである。熱心は名誉のためである。世に純正な善人はいない。
神は義者の崇拝を受けつつあるが、実は神は、義者に下された物質的利益に対するごく小さな返礼を受けつつあるに過ぎない。サタンはこの言葉によって神に答えて、ヨブを侮辱すると同時に、神を冒涜したのである。(6〜11節)
◎ ところがエホバは忍耐強く、寛容であられる。彼はサタンに答えて言われた。あなたの思うようにしなさい。あなたがもし義者の誠実を疑うなら、あなたが思うとおりに彼を試みなさい。世に利欲を離れた信仰はあるかないか。私は今、ヨブの場合において、この事をあなたに示そうと思うと。(12節)
◎ 天上の会議は終わった。そしてこれに応じるために、地上に変災が起こった。始めにヨブの牛と牝驢馬とは、シバ人に掠められた。その次に彼の僕が雷に撃たれて死んだ。その次に彼の駱駝がカルデヤ人に奪い去られた。その次に彼の子女が大風のために変死した。
災難は個々に来ない。必ず踵を接して来る。ヨブのこの世の財産は滅ぼされて、東方第一の富豪ヨブは、一日で裸体(はだか)の人となった。彼は今、目の当り神を呪うであろうか。サタンはそう思った。しかしヨブはそうしなかった。
彼の信仰は、利欲以上であった。彼は壊敗の中に立って、エホバの聖名を讃美した。こうしてサタンの推定は敗れて、エホバは栄を得られた。(13〜22節)。
◎ 泣く者よ、試みられている者よ、知れ。地上の患苦は天上の摂理に応じて来るものであることを。神は私達の誠実をお知りになった。神は私達を「
我が僕」と呼ばれる。
彼にある聖図があるからこそ、私達は苦しめられているのである。憐れむべき我々は、地上に在って、天上の会議に与ることはできない。
しかし信仰の眼は、神の聖座を囲む帷幕(いまく)を通して、大災害が私達の身に臨む前に、大恩命が私達について、私達を悩ます者に伝えられたことを見る。
(以下次回に続く)