「愛すべき三姉妹」他
明治38年6月10日
1.愛すべき三姉妹
三人の愛すべき姉妹がいる。長女を信(しん)といい、二女を望(ぼう)といい、三女を愛(あい)という。長女は堅忍、二女は快活、三女は優美である。
そして私は、ここに主に二女について語ろうと思うが、しかし、彼女について語ろうと思っても、私は彼女一人について語ることは出来ない。
彼女には父がいる。私は彼の徳を讃えないではいられない。彼女には母がいる。聖霊となって、私達の心に宿られる。彼女の姉と彼女の妹とは、彼女と相対して、常に私の崇敬を引かずにはいない。私はここに謹んで、この誌を「天の聖家族」に献じる。
2.前誌と本誌
「聖書之研究」は、信(しん)の敬慕者であった。彼は嘲笑讒侮(ざんぶ)の中に生れて、よく堅忍の生を保った。今や「新希望」は彼の後を受け、望(ぼう)を彼の極美として仰ぎ、彼女の鼓動の下に、歓喜、満足、平和、勤勉の生涯を続けようと思う。
望は、信のように高荘ではない。しかし、よく下界に止まって、天上の純美を維持する。そして望の謳歌者であろうと思う。本誌は、よく天上の歓喜を持って来て、地上の憂苦を払う者とならなければならない。
厳冬の後に春陽が来る。「聖書之研究」に次いで「新希望」が生れる。これは、時の正当な順序ではないか。もし花が既に落ち、夏が既に過ぎ、金風が涼を送って収穫の秋を告げるようになれば、望は彼女の位地を愛に譲り、私にさらに
実成された希望について歌わせずにいようか。
私は、今からその時が至ることを願い、収穫を望んで、喜んでここに私の新事業に入りたいと思う。
3.信と望
私の霊が、地を離れて天に昇り、地を眼下に見て、その上に屹立(きつりつ)する時、私に信がある。私の霊が、再び地に降りて来て、悲哀に接し、天の歓喜によってこれを慰めようとする時、私に望がある。
信は高くて潔い。望は低くて優しい。二人は共に神の子である。そして私達は、時には望に倣わなければならない。
4.希望の宇宙
私達が住んでいる宇宙は、希望の宇宙である。何で泣き、悲しみ、憤(いきどお)る必要があろうか。神の御旨は成りつつある。世界の人は、みな喜ぶべきである。
失望は、ただ悪人だけにある。一たび罪を悔いて神に帰って来れば、私達は直ちに希望の宇宙に生れ出るのである。「
是故に人キリストに在るときは、新たに造られたる者なり。旧きは去りて皆な新らしくなるなり。」。
宇宙が悪いからではない。これを見る目が悪いからである。「
若し爾の目、瞭(あきら)かならば、全宇宙も亦明(あきらか)なるべし」(マタイ伝6章22節参考)。
希望の生命を受けよ。そしてこの宇宙が希望の宇宙であることを悟れ。既に希望の宇宙に在りながら、これを呪って憤死するな。
5.永生の解
永生は、後に来るものではない。今既に有るものである。
永生は神の生命であって、時に関係のないものである。即ち、前にあったものであって、今あるもの、そして未来永劫にまであるものである。
今既に永生を有(も)っていない者は、未来になっても、これを得る道理がない。私が来世の存在を唱えるのは、キリストに現れた神の生命が、不死無窮であることを信じるからである。
私は、人に不定の来世を説いて、彼に善行を勧めようとはしない。私は彼に、確定の永生を伝えて、彼を今から不朽の人にしようと努める。永生の獲得は、これを現世において為すべきである。来世においてこれを為そうとしても、おそらく為し得ないであろう。
6.キリストの再来
再来は、
再顕という意味である。ギリシャ語の「アポカリプシス」も、英語の「レベレーション」も、共にこの意味を示す。
キリストは、今は天の高みに居られて、後の日に天の万軍を率いて、再び私達の間に降りて来られるのではない。キリストは、今既に私達と共に居られて、後の日に至って、その体を現されるだけである。
「
我は世の末まで、常に爾曹と偕に在るなり」と彼は言われた。キリストの再臨は、世の終局の出来事である。そして万事万物は全て悉く、この喜ぶべき最終の出来事に向って、進みつつあるのである。
私達が日々キリストの再顕を待ち望むのは、それが時々刻々と私達に迫り来つつあることを知っているからである。私達は既に、キリストのものとなって、全世界の出来事は、こぞって私達を希望の域に向けて進めつつあるのである。
私達は、キリストの再来を望んで、日々天上を望む必要はない。正当に人生を解すれば、日々の新聞紙は私達にこの快事を告げるものである。主は言われた。
耳あるものは聴くべしと。
7.平民の書としての聖書
聖書を教会の書と解すれば、その興味は全く失せるのである。聖書は神の書であって、平民の書である。
ある意味においては、ダンテの詩集、カーライルの論文のようなものである。即ち農夫によって茅屋(ぼうおく)で読まれ、商人によって店頭でひもとかれるべき書である。
聖書は、神が直接に、人類に与えて下さった書である。先ずこれを僧侶に授けられて、彼等にこれを平民に伝えさせられた書ではない。私達神の子である者は、天然に接するような自由を以て、これに接し、臆(おく)することなく、恐れることなく、「我が書」としてこれを読み、その光に浴すべきである。
8.キリスト教の真意
活動思索の全ての方面において、エホバの神を崇め奉る、これをキリスト教の真意だと考える。あるいは天体に神の栄光を探り、あるいは地層にその御手の技(わざ)を求める。あるいは詩歌にその無限の愛を称え、あるいは美術にその微妙な理想を現す。
農は神と共に神の地を耕すことである。工は神と共に、造化の上にさらに造化を加えることである。商は神と共に、神の物産を広く四方に分かつことである。
神はその御業を遂げられるに当たって、私達全ての者の労働を御求めになる。私達は各自その今日の地位に在って、最優等のキリスト信徒となることが出来るのである。世にいわゆる「教役者」の仲間に加わって、「特に」神を喜ばせ奉ろうとする必要はない。
9.事実の信仰
事実の子となりなさい。理論の奴隷となるな。事実は悉くこれを信じなさい。その時には、事実が相衝突するように見えることがあっても、敢えて心を痛めるな。事実は終に相調和するであろう。
それが宗教的であるか、科学的であるか、哲学的であるか、実際的であるかに関わらず、全ての事実は、終に一大事実となって現れるであろう。
私達は理論の奴隷なので、しばしば懐疑の悪鬼に犯されるのである。神の言葉である事実だけに頼んでいれば、私達の信仰は、盤石の上に立って動かないであろう。
10.懐疑の所在
農夫、木こり、職工、正直な商人等には懐疑はない。懐疑は、学生、僧侶、文人等の中にある。即ち手で直接に天然物に接することなく、多く室内に安座して、宇宙と人生とに関して、沈思黙考を凝らす者の中にある。
懐疑は、思想の過食から来る、脳髄の不消化症である。ゆえにこれを癒す方法は、疑問の解釈を供することではなくて、これら憐れむべき座食者に、沈思黙考することを止めさせて、手を使って働かせることにある。
私は、机に寄りかかって宗教問題に煩悶するいわゆる懐疑者なる者に対して、少しも同情しない。
11.新生命と新事業
新事業を求めようと思うな。新生命を求めよ。新事業は、必ずしも新生命を生まない。しかし、新生命は多くの場合においては、新事業を作る。成功の秘訣は、これを外に求めてはならない。内に求めるべきである。
そして内から出た新事業は、常に健全で、常に永続する。私が人に新生命を勧めるのは、どうしてただ宗教道徳のためだけであろうか。
12.地上の天国
神と、天然と、幸福な家庭と、少数の友人と、これがあれば沢山である。その他は要(い)らない。政党も要らない。教会も要らない。長官も監督も牧師も要らない。私の全ての幸福は、この四つのものの中にある。
官職が何だというのか。教職が何だというのか。人望が何だというのか。この四つのものがあって、この世は既に天国である。そして、謙遜と誠実と勤勉とによってこの四つのものを得るのは難しくない。感謝すべきかな。
13.幸福のある所
幸福は、政治の外にある。政治には野心がある。奸策がある。結党がある。政治は清浄を愛し、潔白を求める者が、入ろうと思う所ではない。
幸福は、教会の外にある。教会には競争がある。陥穽(かんせい)がある。教会は、神の自由を愛する者が、長く留まるべき所ではない。
幸福は、神の天然においてある。ここに自由がある。誠実がある。真率がある。ああ、私の愛する友よ、来て私達と共に天然を通して、天然の神と交わりなさい。
完