(「パウロの復活論」その2)
(「第一段 復活の事実」その2)
その四、復活の普及
20節 然れどもキリストは、誠に死より甦らされて、寝(ねぶ)りし者の初穂(はつほ)となれり。
21節 人に由りて死ぬること出しが故に、亦人に由りて死より甦ること出(い)でたり。
22節 アダムにありてすべての人の死ぬる如く、キリストにありてすべての人は生くべし。
23節 然れども各(おのおの)其順序に循(したが)ふ。初にキリスト、次にキリストの現はれん時に彼に属(つ)ける者なり。
24節 然る後に終(おわり)至らん。其時、彼、諸(もろもろ)の政(まつりごと)、及び諸(すべて)の権と能(ちから)とを滅して、国を父なる神に付(わた)し給ふべし。
25節 彼は諸の敵を其足下に置くまでは、統(す)べ給はざるを得ず。
26節 最後(いやはて)に滅さるゝは死なり。
27節 そは、「彼は万物を其足下に置き給へばなり」。然れども「万物を其下に置き給へり」と云ひ給ひし時、万物を其下に置き給ひし者の其内にあらざるは明かなり。
28節 然れども万物彼に服(したが)ふときは、子も亦万物を己に服(したが)はしゝ者に服ふべし。是れ神すべての物の上に主たらんためなり。
◎ 復活を否定する結果は、その通りである
(「その三、不信の結果」)。しかし、事実は全くこれに反し、「
キリストは誠に死より甦らされて寝りし者の(復活の)初穂となれり」。
復活はキリストを以て始まり、そして私達、彼を信じる者に及んだ。復活は事実である。始めにキリストにおいて事実となり、次に私達、彼を信じる者において事実となろうとしていると(20節)。
◎ キリストの復活を以て、新生命はこの世に臨んだ。アダムによって人が死ぬことが出てきたように、「
人なるキリスト・イエス」(テモテ前書2章5節)によって、死から甦ることが出てきた。
アダムにあって、即ちその性欲を自己の性となし、その道を自己の道となして、全ての人が死ぬように、
キリストにあって、即ちキリストの霊性を自己に受け、全身を彼の手中に委ねて、全ての人は生きるのである。
神を離れたアダムに残った生命は、死すべき生命であった。しかし、キリストの死と復活とによって、人類に供せられた生命は、死ぬことのない生命である。
死が遺伝するように、生もまた普及する。贖罪と言い、救済と言うのは、死ぬべき生命を死ぬことのない生命に換えることである(21、22節)。
◎ キリストは、誠に死から甦らされた。そして彼の生命を受ける者は、彼のように甦らされるであろう。しかし、物にはその順序がある。軍人に各々その等級があるのと同様である。
初めに大将軍キリストが、死に勝って甦らされ、次に彼が現れる時には、彼の軍隊に属する者が、彼に倣(なら)って甦らされるであろうと。ここに
順序と訳された原語は、軍事的術語で、
等級という意味である(23節)。
◎ キリストは既に甦らされて、父の側に在る。そして彼が再び現れる時に、私達、彼に属する彼の兵卒は、死から甦らされて、彼と共に現れるであろう。そして、この事があって後に、世の終わりが来るであろう。
その時キリストは、全ての政権、全ての権能を悉く滅ぼして、全宇宙(国と訳された原語の意味は、おそらくこれである)を父なる神に渡されるであろう。この事を宇宙の終局と言うのである(24節)。
◎ 善は終に悪に勝たずにはいない。神の「ことば」であって、その権能の受託者であるキリストは、神に逆らう全ての敵を、その足下に置くまでは、万物の統治権を握らざるを得ない。
神の御旨を妨害する一物が、なお世に存する間は、キリストは王として、万物を統御せざるを得ない。神の子がキリストとして現れたのは、神に背いた宇宙を、その原状に復帰させるためである。この偉業が成るまでは、彼は救世主の権能を揮(ふる)わざるを得ない(25節)。
◎ キリストは政権を滅ぼされるであろう。なぜならそれは、「
神と称ふる者、また人の拝む所の者……神の殿(みや)に坐して、自から神なりとする者」(テサロニケ後書2章4節)だからである。
彼は哲学を滅ぼされるであろう。なぜならそれは、「
己の智慧を恃みて、神を知らざる者」(コリント前書1章21節)だからである。
そして最後に滅ぼされる敵は、死である。彼が滅んで、神に敵する者は、全くいなくなる。世の全ての罪悪が滅ぼされることがあっても、死がなお死なない限りは、神は未だ世に勝ったと言えない。
そうです。死が死なない限りは、罪悪は未だ滅びないのである。前節に言われている「
若しキリスト甦らされざりしならば、汝等は尚ほ罪の中に在り」とは、この事を言うのである(26節)。
◎ 詩篇8篇6節に言う。「主エホバは……万物をその足下に置き給へり」と。これは、その子、即ち私達の主イエス・キリストについて言われたのである。
しかし、そのように言われた父の神は、万物以上のものであって、万物の内に数えられるべきものでないことは、明らかである。父は万物を子に委ねられた。子は、万物を己に従わせ、終に万物と共に、万物を子の支配の下に置かれた者即ち父の神に従うであろう。
これは、父の神が全ての者の上に主となるためである。なぜなら、「
万物は爾曹(なんじら)のもの……爾曹はキリストのもの、キリストは神のもの」(コリント前書3章末節)だからである(27、28節)。
◎「甦らされたり」と言って、「甦れり」とは言わない。なぜなら、復活の能力は、直ちに神から出るものだからである。人には自ら甦る能力はない。彼は神に甦らされざるを得ない。
そしてキリストさえも、更生の能力は、これを父なる神から受けられたと見える。おそらく生命の能力は、三位の共有に属するものであり、一位がほしいままにすることの出来ないもののようである。事は神性の奥義に属し、人には窺い知る所ではない。
◎ 「
子も亦万物を己に服はしゝ者に服ふべし」とあるが、これは必ずしも子は父の下位に立つものであるということを示す言葉ではない。
父が尊いのは、統べることにある。子が貴いのは従うことにある。子は万物を自分に従わせ、万物と共に父に従うに至って、子としての栄光を現されるのである。
屈従は恥辱である。しかし、自由意志による服従は栄光である。そしてキリストの栄光は、この名誉の服従に存するのである(28節)。
その五、復活と道徳
29節 若し死(しに)し者全く甦らされざるならば、死し者のためにバプテスマを受くる者は、何を為さんとする乎。彼等何故に死し者のためにバプテスマを受くる乎。
30節 また何のために我等常に危険(あやうき)に居るや。
31節 我等の主キリスト・イエスに在りて汝等に就き我が抱く誇負(ほこり)を指して誓ふ、我日々死すと。
32節 若し我人の如くエペソに於て獣と共に闘ひしならば、我に何の益あらん乎。若し死し者甦らされずば、「我儕飲み且つ食ふべし。そは、我等明日死ぬべければ也」。
33節 汝等欺かるゝ勿れ。「悪き交際は善き慣例を害ふなり」。
34節 汝等義に因(より)て覚めよ。而して罪を犯す勿れ。
35節 汝等の或者は、神を知らず。我、汝等を愧(はずかし)めんとて之を言ふなり。
◎ 「死し者のためにバプテスマを受くる」とは、使徒在世当時の慣例に従い、生者が死者に代わって、バプテスマを受けることだとも言い、または死者の遺言により、あるいはその信仰に促されて、悔改めのバプテスマを受けることだとも言う。
二者のいずれに解しても、死んで消滅した者のためにバプテスマを受けるという愚は、言うまでもなく明らかである。死者が死んでいないことを知ればこそ、これに対して生者に対するかのように義務を尽すのであると(29節)。
◎ またもし死んだ者が全く甦らされないならば、何のために私達は、常に危険の中に居るのか。キリスト信者の生涯は、実に危険極まる生涯である。彼は政府に嫌われ、社会に賎しめられ、しばしば教会そのものに苦しめられる。
私達が「
家あるひは父母、あるひは兄弟、あるひは妻、あるひは児女(こども)を捨て」(ルカ伝18章29節)キリストに来たのは何のためか。永生を受けて神の国に入ろうとしてではないか。
キリスト信者の生涯は、まことに危険な生涯である。これを安逸の生涯だと言う者は、未だキリスト教が何であるかを知らない者である。安逸に暮らしている今日の教会信者を見てみなさい。彼等は危険の中にいない。ゆえに来世を望まない。また復活を信じないのである(30節)。
◎ 「誇負(ほこり)を指して誓ふ」とは、誇りとしている事物を賭して誓うという意味である。パウロは彼の信徒を誇りとした。「
我儕の望みまた喜び、また誇りの冕(かんむり)は何ぞや。我儕の主イエス・キリストの来らん時、その前にて爾曹も此ものとなるにあらずや」(テサロニケ前書2章19節)。
物を指して誓うと言うのは、ユダヤ人の語風であって、その言葉が確実で無謬であることを示そうとする時に用いられたのである。そして誓言は、イエスが禁じられたものであるにもかかわらず(マタイ伝5章34節以下)、ユダヤ人の国風として、使徒等の中にも残っていたようである。
パウロは熱誠のあまり、時にあるいはこの激越な言葉を発しなければ、彼の真意が通じにくいと感じたようである。
彼は言おうと思った。私は、私達が常に危険の中に居ると言ったが、実にその通りであり、私のこの言葉は言い過ぎではない。いや、私はさらに進んで言おうと思う。
もし私のこの言葉が誤謬であるとするなら、私は私がこの世に在って、最も貴重だとする、私の誇りの冕であるあなたたちを賭して誓おうと思う……そしてあなたたちを賭することが、私に取って不可能事であることは、あなたたちがよく、これを知っている……そうです。私は言おうと思う。「
我日々死すと」(31節)。
◎ パウロは実に日々死ぬという思念を以て、彼の伝道に従事した。彼はかつて言った。「
我儕心中に必死を定む」(コリント後書1章9節)と。そして必死を期して、泰然と構えることが出来るのである。
しかしパウロのように、必死を期しながら、歓喜に満ちて活動する者はいない。復活の希望があって、死は始めて生命に至る門となるのである(31節)。
◎ パウロは、エペソにいた時、獣と戦ったと言う。これは、円形闘技場において野獣と戦ったという意味であるのか、あるいは野獣に類する野卑な人と争ったという意味であるのか、詳(つまび)らかではない。
多くの初代のキリスト信者が、円形闘技場で野獣の餌食となったのは事実である。パウロもまた、あるいはこの種の迫害に遭遇したのであろう。しかしそれが、どの野獣であったのかは、別に問う必要はない。
ただ彼が、エペソにおいて、しばしば死の危険に陥ったことは事実である。そして彼は言った。もしこの時、私に更生の希望がなかったならば、この苦闘は、私に取って何の益があろうかと(32節)。
◎ もし死んだ者が甦らされないならば、私達は絶望した古人に倣って、「我儕飲み且つ食ふべし。そは、我等明日死ぬべければ也」と言って、酒池肉林の間にこの生命を終わる方が良い(イザヤ書22章13節)。何を好んで身を全ての危険に曝し、空望に希望をつなぎ、益のない生涯を送ろうかと。
確実な生涯を送りたいと思うなら、確実な希望がなければならない。そして復活の希望ほど、浮浪の生涯を確固としたものにするものはない(32節)。
◎ あなたたちは、復活を否定する者に、欺かれてはならない。古詩に言っているではないか。「悪しき交際は善き慣例を害ふ」と(一説によれば、これはギリシャ詩人メナンデルの言葉である)。
あなたたちは、復活を否定する者と交われば、害を蒙らないようにしたいと思っても、それは出来ない。復活の信仰は、彼等が唱えるような、信仰の細事ではない。
私達使徒等によって伝えられた福音は、実に復活を基礎として存立するものである。キリスト教の道徳もまた、これによって立つものである。
復活なしには、キリスト教的道徳はない。これは真実である。
復活を否定してもキリスト教の道徳は滅びないと言う者などは、未だ私達使徒等によって伝えられた福音の真髄に入っていない者である(33節)。
◎ 「汝等義に因(より)て覚めよ」、自分の冷淡さに義憤を覚えよ。なぜなら復活の否定は、あなたたちの微弱な道念から出ているからである。
高い道徳は、高い信仰を生む。あなたたちの道念が衰えたので、この信仰の衰弱が起きたのである。「罪を犯す勿れ」、復活を信じるに至らせる清い生涯に入りなさい。あなたたちが復活を否認するのは、あなたたちのぬるい信仰を覆うためである(34節)。
◎ 「汝等の或者は、神を知らず」、それで復活はないと言うのである。神が何であるかを知る者の中には、復活を否定する者などいるはずがない。「
神すでに死し者を甦らせ給へりと云ふとも爾曹なんぞ信じ難しとする乎」(使徒行伝26章8節)。
神を知る者の中に、復活を疑う者がいるはずがない。復活を疑う者よ、あなたは知らないのか。あなたは神を知らない者であることを。
あなたは神を知ると称しながら、復活はないと言う。あなたはそう言って、自己に恥じないのか。私がそう言うのは、あなたたちを辱しめて、あなたたちを正(せい)に還らせるためである(35節)。
(以上、6月10日)
(以下次回に続く)