善行の報償
(北越巡行の感想として家人に語ったもの)
明治38年6月10日
善を行ふに倦(う)むこと勿れ。そは若し弛(たゆ)むことなくば、我儕時に
至りて穫取(かりと)るべければ也。 (ガラテヤ書6章9節)
善は神の御心です。そして神の御心は、必ず成るものです。それがいつであるかは、私達人間には分かりません。しかしながら、いつか、神の御心にかなう時に、必ず事実となって、この世に現れて来ることは、何よりも明らかです。
ここに言う「善を行ふ」とは、本章の第6節にある「道を教ふる」ということを受けて言っているのです。伝道は、善行の中で、最も大きなものです。人に永生を与えること、これが善行の至極(しきょく)です。
そして私達は、善行、殊に生命(いのち)の道(ことば)を人に付与するのに倦(う)んではならないとのことです。しかし、世に倦み易いことと言って、この事業ほどのものはありません。
人は容易に善を受けません。いや多くの場合においては、嘲笑罵詈によって、これを退けます。たとえまた受けるとしても、滅多に感謝の念を以てこれを受けません。彼等は、神の御言葉などは、有っても無くてもよいものであると思っています。
医師を優待し、政治家を歓迎する彼等は、神の御言葉をもたらす伝道師を迎えるには、至って冷淡です。そしてこの事を思って私達は幾度か失望し、幾度か落胆するのです。
私達は、ある時は思います。善を為すことに、何の益があろうか、道を伝えることに、何の用があろうか。私に実益が無いことは、私はよく忍ぶことが出来よう。しかし、人も私の勤労によって、何の益をも得ないではないか。
私は、神の道を説いて、無益に私の生涯を消費してしまった。私は水中に種を播いたのだ。砂上に苗を植えたのだと。
そして、そのように歎声(たんせい)を発して、伝道を廃し、商業または政治に入った伝道師は、決して少なくはありません。
しかしながら、これは無益な歎声です。これは無知な失望です。ゆえに使徒パウロは、続いて言いました。
そは、若し弛(たゆ)むことなくば、我儕時に至りて穫取(かりと)るべけれ
ば也
と。どのような事業でも、その成功を見るには、多くの忍耐を要することは、言うまでもありません。殊に人の霊魂を救うことを目的とする伝道事業が、その功を奏するまでに、多くの時日を要するのは当然です。
一つの銀行を起こし、一つの政党を建てるのでさえ、多くの歳月を要します。そしてその得るところは何であるかと言うと、わずかに数十百万の財産か、あるいは一国の政権です。
ところが私達は、伝道によって、人の霊魂を永遠にまで救おうと思っているのです。即ち人に無窮の生命を授けるだけでなく、私も神の前に立って、私が戴く冠に、貴重な宝石を加えようとするのです。
私達が伝道について失望するのは、私達が、伝道は何を目的としているかを知らないからです。
もし一個の金剛石を得るためには、たとえそれが小豆大のものであっても、これを得るために数年働いても、決して厭いはしないではありませんか。ましてや、永久に輝く人の霊魂を得るためには、私達はその一つを得るために、一生涯を費やしても、決して厭うべきではないではありませんか。
私達は死ぬ時、私達の財産や勲章を持って行くことは出来ません。しかしながら、死ぬ時の慰藉であって、また死後の唯一の宝であるものは、私達がキリストに在って、神の言葉によって生んだ霊魂です。
この財産を有(も)たない者は、神の国においては、無一物の貧乏人です。私達は
永久の子を生もうとして、伝道を助け、これに従事するのです。
私達は、倦(う)んではなりません。なぜなら、私達は時期が来れば、必ず私達の労働の結果を刈取ることが出来るからです。この事に関する聖書の他の言葉を御覧なさい。
汝の糧食(くいもの)(麦種のことであろう)を水の上に投げよ。多くの日の
後に、汝ふたゝび之を得ん(伝道の書11章1節)。
天より雨降り雪落ちて復(ま)た還らず。地を湿(うるお)して物を生えしめ、
芽を出さしめて播く者に種を与へ、食(くら)ふ者に糧(かて)を与ふ。此(か)
く我が口より出る言(ことば)も、空しくは我に還らず。我が喜ぶ所をなし、
我が命じ遣(おく)りし事を果たさん(イザヤ書55章10、11節)
兄弟よ、忍びて主の臨(きた)るを待つべし。視よ、農夫地の貴き産を得る
を望みて前と後との雨を得るまで永く忍び、之を待てり。汝等も忍べ。
汝等の心を堅くせよ。そは主の臨(きた)り給ふこと近づけば也(ヤコブ書
5章7、8節)
この他にも、同じ慰藉(なぐさめ)を与えている聖書の言葉は、沢山あります。「
兄弟よ、恒に励みて主の工(わざ)を努めよ。そは、汝等主に在りて其為す所の労の徒労ならざるを知れば也」(コリント前書15章末節)とは、パウロのこの事に関する適切な言葉です。
神の言葉は、他のものとは違います。文学であるとか、哲学であるとかいうものは、これに耳を傾ける者は多くありますが、しかし、一度これを聞けばまた直に忘れてしまいます。
しかしながら、神の言葉は、一度これを耳にすれば、両刃(もろは)の剣のように、人の心に入り、これを除こうとしても、除くことは出来ません。
神の言葉は、活きている種子のようなものですから、時さえ来れば、
キット生えます。今目前で直ぐに生えないのは、未だ時が至っていないからです。
これを聞いた人の歳が、未だ足りないからかも知れません。あるいは、未だその人の人生の経験が浅くて、これを充分に分かるに至っていないからであるかも知れません。あるいはその他の理由のために、神の聖霊が、未だその人の上に降らないで、種子が芽を出して、地を裂(さ)いて生え出るに至らないのでしょう。
しかしながら、いずれにしろ播いた御言葉の種子は、決して死にません。若し万一この世においては生えないとしても、次の世で生えないと誰が知っていますか。
播かない種は生えません。しかし、播いた御言葉の種は、必ず生えます。もし不幸にして、これを受けた者を永生に導かないならば、これは神が彼を裁かれる時に、彼に対して、彼の罪の証拠として現れます。
神の御言葉は、実に雨のようなものです。地を潤さずには、再び天に還りません。神の御言葉はまた、選手が放つ矢のようなものです。的を外れる矢などは一本もありません。そのような有効物を委ねられた私達は、その使用について、決して失望してはなりません。
もちろん私達の収穫なるものは、この世において行われるものではありません。私達は、私達の倉を満たすには、
主が来られる日を待たなければなりません。永生の収穫期は、神の裁判の日です。そしてその日が決して遠くないことは、聖書が明らかに示していることです。
そして人は、老後のために準備をするだけでなく、また、この主の恐るべき日のために、準備をしなくてはなりません。「来世のための準備」だからと言って、これをゆるがせにしてはなりません。
もし人生の意義が、どこにあるかを深く調べてみるならば、それが、この恐るべき主の裁判の日のために準備をすることであることが分かるべきはずです。
しかしながら、この喜ばしい収穫の前兆は、これをこの世においても見ることが出来ます。私達は、私達が刈取るべき禾穀(かこく)の味を前以て、この世において味わうことが出来ます。
神の報償は、充分に来世において来ますが、しかしその一部は、現世においても来ます。
私達が、私達の種まきの事業において失望しないように、私達が終末の収穫が如何に喜ばしいものであるかを知るために、神はこの世においても、私達の労働の結果を与えて下さって、私達の消えそうになった望みを、生き返らせて下さいます。
世に喜ばしいことと言って、
霊が結んだ果を目撃するほどのことはありません。あるいは10年、あるいは20年、血と涙とを注いで播いた結果として、一人の本当のクリスチャンが出来たのを見れば、私の霊魂は、天にも昇るかと思うばかりに喜びます。
一人の同胞が、宇宙万物の造主である神を発見したのです。そして私が、その発見を促すための機関になったということです。
世の帝王が、その臣下に下す栄誉の中にも、これに優る栄誉はありません。世の富豪が、万金を投じて得ようとする快楽も、この快楽に比べようもありません。
歓喜の極、満足の極とは、人をその造主に導いたことを知った時の感です。
この歓喜を得るためには、十年身を労しても、決して惜しむべきではありません。この昇天の快楽を味わうためには、二十年にわたる世の嘲弄(ちょうろう)、罵詈(ばり)、讒謗(ざんぼう)も決して悲しむべきではありません。
伝道の報酬は、金銭となって現れて来るものは、極々わずかです。いや、ある時は皆無です。また世の名誉として現れて来るものにしても数えるに足りません。
いや、真正の伝道には、名誉は皆無です。世に愚弄されるだけではありません。教会にまで嫌われます。
しかしながら、伝道には伝道相応の報酬があります。即ち活ける霊魂の報酬があります。もし人生の宝の中に、自分が生んだ子に優る者がいないとすれば、肉体の子以上の宝は、実にキリストに在って生んだ霊魂の子です。
そのような子供を一人持つことは、全世界を持つのに優る富です。伝道の効果は、実に偉大なものです。
そして神は、私達が思いもしない所に、私達によってお生みになった子を隠しておいて、私達を驚かされます。ここの山奥、かしこの海辺に、私達が播いた種を吹き送って、そこに私達が知らないうちに、私達の霊魂の子を育てておかれます。
そしてある機会を得て、私達がその子に出会った時の、私達の歓喜と驚愕とは、これを言い表すのに足りる言葉はありません。
我が師父よと、我が兄弟よ、我が霊子(れいし)よと、肉体の父子よりもはるかに親しい者は、霊魂の親子です。この快楽を一度味わえば、伝道は終生止められません。
善を行ふに倦むこと勿れ。そは若し弛(たゆ)むことなくば、我儕時に至り
て穫取(かりと)るべければ也。
この通りです。これは、実験の言葉です。私達は善行に倦んではなりません。殊に伝道に倦んではなりません。教会より正式に授かった伝道の職を持つか持たないかに関わりません。
いや、多くの場合においては、そのような無益な「職」は、持たない方が良いのです。誰でもイエス・キリストを信じる者は、キリストのために善を為して、その偉大な報償に与るべきです。
完