「キリストの道」他
明治38年7月10日
1.キリストの道
責めるべき人を責めるのは、正義の道であろう。しかし、人の責めを己に担うのは、キリストの道である。キリスト信者は義人以上である。即ち他人の罪のために、罪人として神に罰せられる者である。
2.神の愛
神の愛は海のようである。広くて深い。井戸のように深くない。沼のように広くない。私達は神の愛の深さを量ろうとする時に、その広さを忘れ、その広さを量ろうとする時に、その深さを忘れる。
私達は、神のように深く万人を愛することはできない。広く霊魂を愛することは出来ない。
愛の神よ、願わくは、私達の愛の容器を大きくして、私達をあなたのように深くかつ広く愛することが出来るようにして下さい。
3.日露永久の平和
ロシア人は言う。何と憎らしいことか、日本人はと。日本人は言う。何と憎らしいことか、ロシア人はと。しかし神は言われる。何と愛すべきことか、日本人、何と愛すべきかロシア人と。
神の心で見れば、ロシア人は日本人に取って愛すべき者となり、日本人はロシア人に取って愛すべき者となる。日本人とロシア人とは、神によって、今日直ちに永久の平和を結ぶことが出来るであろう。
4.人道と福音
人の愛すべき点は、その憎むべき点よりも少ない。ゆえに人を人のために愛そうと思えば、私達の愛が冷却しないことを欲しても、それは出来ない。人は神のためにだけ、人を愛することが出来るであろう。
人道は、人を愛する道ではない。深く永く人を愛そうと思うなら、神の道であるキリストの福音に依らざるを得ない。
5.愛の鼓動
ある人は、神の愛に感じ、これに励まされて、私を愛した。私はその人の愛に感じ、これに励まされて、ある他の人を愛した。また彼は、私の愛に感じ、これに励まされて、さらにある他の人を愛した。
愛は波及する。延びて地の果てに達し、世の終わりに至る。私も直ちに神に接し、その愛を私の心に受けて、地に愛の波動を起こしたい。
6.神を見る法
神を見たいと思うか。それなら隠れた善を為すべきである。神は恋人のようである。多くの人が拍手喝采する所に、その形を現されない。私達は、人のいない所においてだけ、神と会うことができる。
私達は、神を見たいと思うなら、隠れた所で、多くの善を行って、しばしば彼と密会する機会を作らなければならない。
7.信の一字
私は人に頼らず、また自分に頼らない。私は、天地の造主であるエホバの神に頼る。私は依頼せず、また独立しない。私は、我が主イエス・キリストに依って立つ。依頼と言い、独立と言うのは、この世の言葉である。私達には信の一字があるだけである。依頼以上の依頼、独立以上の独立、これである。
8.聖徒の交際
私は地上に在って、ただ独りで神を愛するのではない。私は世界中の多くの聖徒と共に神を愛するのである。私の身辺に同情者がいないからといって、私は何を恨もうか。私は同情者を広く全世界に有する。
真正のキリスト信者は、全て主に在って一体である。祈祷は、私のために地の四方から天の宝座に向って上がりつつある。
私達は大軍である。主の指導の下に、同一事をこの世に在ってする者である。私達はどのような境遇に在っても、孤独寂寥(せきりょう)を感じるべきではない。
9.最上の快楽
富の快楽がある。美術の快楽がある。文字の快楽がある。学究の快楽がある。しかし、邪念のない快楽は、これら全ての快楽に優る。
「
視よ、真のイスラエル人にして其衷に詭譎(いつわり)なき者ぞ」と。また、「
心の清き者は福(さいわ)ひなり。其人は神を視ることを得べければ也」と。
嫉妬怨恨は、人を害するよりは、先ず自分を毒する。私達は、幸多い生涯を送ろうと思うなら、誰に対しても、悪意をまじえない清浄無邪気な心を懐くべきである。
10.理想の発見
理想の人などいない。理想の神に接して、理想の人となるのである。理想の国などない。神の真理を受けて、理想の国となるのである。理想は、人や国が既に有している性質ではない。新たに神から受けるべきものである。
私達は、全世界に理想の人と国とを求めて、これを発見出来ないからといって、敢えて失望すべきではない。
11.さらに良い
悪を矯正することは良い。しかし、善を勧めるのはさらに良い。毀すのは良い。しかし、築くことはさらに良い。罵るのは良い。しかし、教えるのはさらに良い。憎むのは良い。しかし愛するのは、さらに
さらに良い。
「
爾曹悪に勝たるゝ勿れ。善を以て悪に勝つべし」と。キリスト信徒は、積極的人物である。彼は常に積極的に世の改善を計らなければならない。
12.神の救済法
善を行うべきである。さらに善を行うべきである。さらに進んで善を行うべきである。善の大軍を起こして、悪の小軍を圧倒すべきである。善の量を増して、悪を無いに等しい少量にするべきである。
これが天然の清潔法ではなかろうか。大洋の浄水を以てすれば、五大洲の汚物も、容易にこれを清除することが出来るであろう。涼風の一陣が室内を払えば、終夜の汚気は消えて、跡を留めない。
死に勝つのに生を以てし、闇を駆逐するのに光を以てし、怨みを滅するのに愛を以てする。これが神の救済法である。
私達神の子である者は、悪を以て悪を挫き、怨みを以て怨みに報い、先ず闇を以て闇を駆逐し、それから後に光を注入しようとする人の子の愚にならってはならない。
13.魔言の使用者
魔言を弄して喜ぶ者がいる。そのような人は、さらに進んで悪魔の預言者となって語るがよかろう。悪魔の言葉に奇抜なものがあり、それはこの世の人を喜ばす事が出来る。
しかし、知るべきである。魔言は、自己を高め、人を進める勢力ではないことを。魔言を弄して、悪魔と共に苦笑することは出来よう。しかし、魔言を弄して、
星辰と共に歌い、神の子等と共に皆で喜んで呼び合うことは出来ないであろう。
魔言を弄するのは、その人の損失である。彼は自ら好んでこの事をするのであり、私は彼の行為を妨げない。
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誰のために書こうか。
誰のために書こうか。ああ、誰のために書こうか。
国のために書こうか。いや、国人は私の言葉を容れない。彼等は政治家に聞き、新聞記者に随従する。福音の真理などは、彼等がとりわけ顧みないものである。
社会のために書こうか。いや、社会は生活の快楽を追求する。その他を求めない。キリスト教の教理などは、彼等にとって、何の用もない。
教会のために書こうか。いや、教会は教会制度について論じ、信徒の増加について語る。罪人の救済などは、多く彼等の議題に上らない問題である。
それでは私は、誰のために書こうか。
そうだ、私は少数の同志のために書こう。神の義に飢え渇き、慕い求める者のために書こう。この世において大きくなろうとは思わずに、神の前に聖となろうと思う者のために書こう。肉において貧しくても、霊に富もうと思う者のために書こう。
無教会信者のために書こう。キリストの他、仰ぐべき教師のいない者のために書こう。そうだ、私は、これら少数の我が同志のために書いて、自らも大いに慰められるであろう。
完