雨中閑話
明治38年7月10日
平和の到来 ◎争闘の継続 ◎悪魔のインスピレーション ◎戦争熱の
伝染 ◎不平病 ◎その絶滅と治療法 ◎遺伝性の不平患者 ◎暗い宗
教と明るい宗教 ◎罪悪としての憤怒 ◎義務としての歓喜 ◎美術と
しての生涯 ◎審美学の一章としての倫理学 ◎雨期の利用
◎ 平和は、軍人の武勇によっては来ません。また外交家の手腕によっても来ません。平和は、天の神がその愛を人の心に注がれることによって来ます。
平和の恩恵(めぐみ)は、他の恩恵と等しく、常に思わぬ所から来ます。神は遠からずして、この恩恵を私達に降してくださり、彼が軍人以上、政治家以上であられることを、全世界に示されると思います。
◎ 人は、人を殺すことが出来ます。しかし、人を活かすのは、神の能(ちから)です。人は平和を破ることが出来ます。しかし、平和を回復するのは、神の事業です。
毀すのは建てることだという人の言葉は偽りです。彼は毀すだけで、建てることは出来ません。彼は、死んだ虫一匹をも活かすことは出来ません。まして破れた平和を回復することは出来ません。彼は争闘を続けて、平和の存続をますます困難にしつつあります。
◎ 内に平和が無いものですから、外に争闘(あらそい)を求めるのです。そして内に平和がない間は、勝利に勝利が続いても、外の争闘は止みません。争闘の原因を自己以外に求めるのが、世の人の常です。しかしながら、これを自己の内に発見して、外の平和も来るのです。
世に人類ほど憐れむべき者はありません。彼は内なる病を癒そうとして、敵でもない者を敵として攻めつつあるのです。天の神は、人類のこの状態を御覧になって、さぞかし泣いておられるであろうと思います。
◎ 世には、悪魔のインスピレーションなるものがあります。これによって、全世界が修羅の巷(ちまた)となることがあります。愛が波及するように、憎悪も波及します。あたかも恐水病が犬の間に伝染するように、憎悪殺伐の精神も、人類間に伝染するものです。
世にいわゆる同盟罷工(ひこう)なるものも、多くの場合においては、この種の伝染、この種のインスピレーションによって起こるものです。深い理由は知らずに、また深く理由を究めずに、ただ何となく雇主(やといぬし)が憎くなり、そして同盟に加わる者が沢山います。
世に謀反事業が成功するのは、たいていは悪魔のこの援助によるのです。恐るべき、警戒すべきものは、実にこの悪魔のインスピレーションです。
◎ 戦争病は、恐水病と同じように、神経病の一種ではないでしょうか。そして恐水病がパスチール液の注射によって治るように、戦争病にも何か適当な治療法はないでしょうか。
いずれにしろ戦争熱が伝染することだけは、確かです。それが避けるべきであり、恐れるべきであるのは、主にこの伝染によると思います。その産を尽し、生命を損する害は、この伝染性に比べれば、小さなものです。
◎ このような意味で、不平家は、一家または一国から、何よりも早く、何かの方法で、絶つべきであると思います。
もちろん不平には、高尚なものと、下等なものと、貴ぶべきものと、賎しむべきものとがあります。しかしながら、世に言う不平家なる者は、多くは確実な不平の理由を有しない不平家です。
即ち生れつきの不平家とでも称すべき者です。即ち不平は、その身体構造の中に存していて、天下の何物を以てしても、これを除くことの出来ない性質のものです。
そしてそのような人が危険なのは、彼が不平の王である悪魔のインスピレーションに罹って、彼の不平性を他人に伝えやすいからです。
実は、この天性の不平家ほど、世に同情を寄せるべき人はいません。彼は治すのが最も困難な病を身に負って生れて来た者です。私達は、彼等を憎んではなりません。私達は彼等を、出来るだけ刺激の少ない境遇において、彼等の全癒を計るべきです。
◎ そして不平家を癒す途はあると思います。他にもあるかも知れませんが、しかしキリストの福音が、もっとも難症と思われる不平家を癒した実例は沢山あります。
あるいは私自身も、この恩恵に与った者の一人であるかも知れません。キリストの福音は、あたかも硝石散が体内の病の塊を解き去るように、除こうと思っても除くことの出来ない不平の塊を、いつの間にか解き去ります。
または荒野のメラにおいて、水が苦くて飲めなかった時に、モーゼが神に示された一本の木を、その水の中に投じてこれを甘くした(出エジプト記15章23節以下)ように、キリストの愛を以てすれば、数滴どころか大量の胆汁であっても、たちまちの内に、これを甘露水に変えることが出来ます。
キリストによって癒された盲者もいれば、足なえもいますが、しかし近世に至って、彼の奇跡的治癒に与った不平病患者は、数限りないほどであると思います。
◎ そして日本人総体が、遺伝性の不平病患者ではないかと思います。国は小さいし、気候は蒸し暑いし、これに加えて支那風の圧制的道徳を採用したことですから、
その結果として不平病は、日本人の中に高進せざるを得ず、国民全体が終に腹立虫(はらだちむし)のようになって、わずかのことで悲憤慷慨し、上を怨み、下を責め、政府を怒り、社会を憤るに至ったのではないでしょうか。
いずれにしろ日本人ほど、感謝、感恩、満足、歓喜の念に欠乏している国民は、多くはないと思います。
不平は、確かに日本人の国民的疾病であると思います。殊に近来に至って、西洋の社会制度が輸入されてから、一層激しさを増したのではなかろうかと思います。
◎ 私達は、望んでも国の面積を拡大することは出来ません。また好んでも、気候を変更することは出来ません。あるいは不平病の、確かに一大原因である米食を廃して、直ちに胃弱症を絶つことは出来ません。
しかしながら、支那風の道徳は、今日直ちにこれを廃棄することが出来ます。悲しい天然観は、直ちにこれを去って、それに代えて、詩人ワーズワースが持ったような、喜びに溢れた天然観を採用することは出来ます。
また宗教にも暗いものと、明るいものとがあります。薄暗い寺院の宗教と、晴天に帽子を脱いで神を拝する天然の宗教とがあります。
そして私達は、今日から線香臭い古い暗い宗教をやめて、野の花のような、清らかな香りのする新しい明るい宗教を信じなければなりません。
◎ 人は盗むこと、姦淫すること、殺すこと等が罪悪であると唱えます。これらはもちろん罪悪であることに相違ありません。しかしながら彼等は、怒ること、憤ること、理由なしに悲しむこと等が、同じく罪悪であることを知りません。
私達は、剣を用いてだけ、よく人を殺すことが出来ると思ってはなりません。幾万の妻、幾万の子は、思慮のない夫や父の憤怒のために、その生命を縮めつつあります。
一人が常に愁いを懐いているので、一家こぞって鬱々として、常に楽しくないという家庭は沢山あります。憤怒は確かに大きな罪悪です。憂愁はまた、無慈悲な行為です。
これに反して、歓喜は大きな義務です。常に喜ばない者は、自分を造った神を侮辱し、自分と共に居る人を虐待酷遇する者です。
◎ 美術とは、絵画、音楽、彫刻等に限りません。人生もまた、美術の一つです。そうです。人生は最も大きな美術です。
美術の目的は、自他を喜ばすことにあります。人を喜ばせて、自分も喜ぶのが、美術の特性です。
そして私達は、私達の生涯を、最大美術とすることが出来ます。即ち常に笑みを含み、常に満足を表し、詩人がかつて歌ったような、美術的生涯を送ることが出来ます。
我もかの純潔の域に達し、
憂(うれい)に沈む者の力の盃となり、
熱き情を伝へ、清き愛を授け、
悪意を交(まじ)へざる微笑を咲かせ、
至る所に温良の香(か)を放ち、
放つて益々心に芳(かんば)しからんことを。
斯くて世に喜びの音を奏する、
天上の楽に我も和せんことを。 (愛吟)
音を発しなくても調和を発し、色を呈しなくても愛を表し、私達の一挙一動を、ラファエルの画、ミケランジェロの彫刻にも優る大美術とすることが出来ます。
◎ 人には各々、その野心があります。大政治家となる野心、大文学者となる野心、大美術家となる野心があります。
しかし、何故に喜びに溢れた人となる野心はないのでしょうか。何故に独り自ら楽しみ、至る所で人を楽しまそうとする人生の大技術に、熟達しようとする野心が起こらないのでしょうか。これは才気の満ち溢れた青年男女が、全力を注いで獲得する価値のある芸術ではありませんか。
倫理学は、審美学の一章であって、その最上位に位するものです。倫理学は、
活きている「マドンナ」、
活きている「モーゼ」を画きまた刻むための学科です。これに優って面白い、これに優って真面目な、またこれに優って有益な学科はありません。
◎ 雨は降り続きます。そして雨中にそのようなことを談じるのは、何も困難ではありません。ただ、思いやられるのは農夫です。麦の収穫がどうかです。半年の労働の半分が、無益に帰するということです。
私達は、彼等気の毒な農夫のために何をしましょうか。農業改良論を唱えましょうか。世論に反対しても非戦論を唱えましょうか。あるいは国民の忌諱(きい)に触れても、キリストの福音を伝えましょうか。
ああ、為すべきことは沢山あります。ただ、この時を、小説の楽読のために消費してはなりません。観劇の遊惰に過ごしてはなりません。雨が晴れて後の窮民救済のための準備に、この霖雨の時を用いなければなりません。
サヨナラ
完