「キリストに至る道」他
明治38年8月10日
1.キリストに至る道
キリストは広大無辺である。人は誰でも彼を救主として仰ぐことが出来る。彼に至る道は、一つだけではない。教会によっても彼に至ることが出来るであろう。これによらなくても彼の宝座(みくら)に近づくことが出来るであろう。
世に、彼の恩恵を独占する教会も僧侶もあってはならない。彼に至る条件は、唯一つあるだけである。
砕けた心、これだけである。この心があれば、人は誰でも直ちに彼の懐に入ることが出来る。
2.信仰と品性
最も貴ぶべき者は、高貴(ノーブル)なキリスト信者である。その次に貴ぶべき者は、高貴な不信者である。そして卑しむべき者は、高貴でない信者と不信者である。
人は先ず誰でも、高貴であることを要する。高貴でなければ、貴いキリスト教も、彼を貴ぶべき者にすることは出来ない。私達は、人の貴賎を定めるに当たって、彼が表白する信仰ではなく、彼の固有の品性を基準とすべきである。
3.幸福の秘訣
この世に在って幸福になろうと思うな。そうすれば、幸福になることが出来る。この世の不幸は、私達が幸福になろうと思うことから来る。
この世に在っては、憎まれようと思え。誤解されようと思え。迫害されようと思え。そうすれば、私達は幸福な者となって、神と共に永久の平和を楽しむことが出来る。
4.本当のキリスト信者
「
或人は嘲笑を受け、鞭打たれ、縄目と獄(ひとや)の苦みを受け、石にて撃たれ、鋸(のこぎり)にて挽(ひ)かれ、火にて焚(や)かれ、刃にて殺され、綿羊と山羊の皮を衣(き)て経(へ)あるき、窮乏して難(なや)み苦(くるし)めり。世は彼等を置くに堪えず。彼等は曠野(あれの)と山と地の洞と穴とに流浪せり」(ヘブル書11章36〜38節)。
キリスト信者とは、そのような者であらざるを得ない。かの政府に寵愛され、国民の人望を引こうとする今の教会信者などは、キリスト信者ではないのである。
5.依頼と嫉妬
依頼する者は、互いに相妬む。これは必然の理である。宗教家の嫉妬心が強いのは、彼等の依頼心が強いからである。彼等がもし悉く独立の人であれば、彼等もまた互いに相助ける人となって、寛容高貴の模範を世に示すようになるであろう。
依頼は嫉妬を醸して、キリストの教会を破壊する。恐るべきものは、異端ではなくて、依頼心である。それにもかかわらず、異端を恐れる者は多くて、依頼を恐れる者は少ない。奇異なことである。
6.科学の嘲笑者
科学を嘲笑するキリスト教信者(実は宣教師信者)が多い。彼等は言う。キリスト教は科学以上である。科学によって説明できるものではないと。
しかし、そのように超科学的にキリスト教を解する彼等は、彼等の生涯の方針を定めるに当たって、信仰によらずに科学によることが多い。
彼等は餓死を恐れて、悪いとは知りながら、宣教師の補給を仰ぎ、善いと知りながら断然と立って独立することが出来ない。
彼等は、科学を排するのも良いであろう。しかし、超自然的に聖書を解釈することを誇る彼等は、超自然的に彼等の生涯の方針を定めることを要する。餓死を恐れて独立を躊躇する彼等は、科学を嘲笑する権利を有しない。
7.文明とキリスト教
文明は肉のことである。キリスト教は霊のことである。ゆえに文明とキリスト教との間に、深い関係があるはずがない。
キリスト降世以前のギリシャは、人類がかつて達した最高の文明に達した。イスラム教を信じたムーア人は、その文明において、はるかに当時のキリスト教的国民に優越していた。イタリアの文芸復興は、キリスト教が腐敗の極に達した時に起こった。
これに反して、キリスト教を産したユダヤ国は、いわゆる文明国ではなかった。英国に清教徒が起こってから、その美術と文学とは急速に衰退した。キリスト教とは、いわゆる文明の民ではないのである。
エホバは、預言者ザカリヤによって、イスラエルの民に告げて言われた。「
シオンよ、我汝の人々を振起して、ギリシャの人々を攻めしめん」(ザカリヤ書9章13節)と。
シオンは信仰を代表し、ギリシャは文明を代表する。そしてシオンは常にギリシャの敵である。私達今日のキリスト信徒も、またしばしば奮い立って、文明の人々を攻めざるを得ない。私達は今後、「文明とキリスト教との関係」を口にすべきではない。
8.キリスト教国
世にキリスト教国なるものはない。キリスト教国なるものは、有り得ない。キリストは言われた。「
我国は、この世の国に非ず」(ヨハネ伝18章36節)と。
キリストの国は、この世に建設されるべき性質のものではない。これに国境または兵備または政府または警察または法律など有り得ない。キリストの国は、愛の国である。自由の国である。霊の国である。
今は信徒各自の心の内に存して、後に世界的王国として顕現するものである。私達は、キリスト教国という名に眩惑されて、今の「キリスト教国」なるものに、倣うべきではない。
9.同盟の危険
ロシア人を信じてはならないだけでなく、イギリス人をも信じてはならない。フランス人を信じてはならないだけでなく、アメリカ人をも信じてはならない。ヨーロッパ人もアメリカ人も、みな等しく利欲の人であって、罪の子である。
彼等の一人に頼るのは、他の者に頼るのと同様に危い。詩人ダンテは言った。
私は、私一人で党派を樹立しようと。私達は、神と結ぶべきである。神が私と共に居られれば、私は唯一人で全世界と相対して立つことができる。
10.国家間の遊戯
こういう言葉がある。
人は小児の成長した者にほかならないと。私はさらにこの言葉に加えて言う。
国家は、成長した小児の集合体に他ならないと。
甲が乙と結ぼうとすれば、丙は丁と結んでこれに対しようとする。利欲と嫉妬と猜疑とは同盟を作り、また同盟を毀す。遊戯は小児の間に行われ、また国家の間に行われる。これにただ大小の別があるだけである。「
天に座する者、笑ひ給はん。主、彼等を嘲けり給ふべし」(詩篇2篇4節)。
11.支那の破壊者
ロシア人は、北から暴力を行使して、支那の国境を侵して、これを破壊しようとした。イギリス人は、南からインド産のアヘンを輸入して、支那人の意気を消耗し、それによって華国壊乱の基を開いた。
ロシア人は外から、イギリス人は中から、我が憐れむべき隣人を侵害した。私達はロシア人の横暴を憤ると同時に、またイギリス人の残虐を責めざるを得ない。
12.社会主義とキリスト教
社会主義は肉のことである。キリスト教は霊のことである。社会主義は地のことである。キリスト教は天のことである。
私は空腹に苦しむ。願わくは、食を与えよと。これは社会主義である。「
鹿の渓水(たにみず)を慕ひ喘(あえ)ぐが如く、我が霊はエホバの神を慕ひ喘ぐなり」(詩篇42篇1節)、これがキリスト教である。
二者の間に天地雲泥の差がある。私達は二者を混同すべきではない。
13.信仰と知識と健康
先ず第一に信仰の人であれ。信仰は人格の骨子である。信仰がなければ、人は道徳的無脊椎動物と化すのである。
第二に知識の人となれ。知識は、神を見る能力(ちから)である。知識によらずには、広く深く神を愛することが出来ない。
第三に健康の人であれ。肉体の健康は、もちろん信仰を曲げてまでも保持する価値のあるものではない。しかし、百年に満たないこの生命も、私達に取ってはまた永生の一部分である。
これを善のために使用して、出来る限り永くこれを楽しむのは、神の御旨である。私達は、生きている間は、勇ましく生きて、勇ましく死ぬための準備をしなければならない。信仰と知識と健康、この三つのものは常に貴い。そしてその中で最も貴いものは信仰である。
14.親切の取戻し
私は及ばずながら、親切をすることを好む。親切をすることは、無上の快楽である。これをしないことは、大きな苦痛である。
しかしながら、私の親切が軟弱として解される時に、あるいは人の歓心を買うための策略として受け取られる時に、私は残念ながら、私が与えた親切を取り戻さなければならない。
聖書には、「
神は善人にも、悪人にも同じく雨を降し給ふ」と書いてあるが、しかしまた、「
汝等豚の前に汝等の真珠を投与ふる勿れ」とも書いてある。
人が与えようとする親切を乱用するほどの罪悪は、ないと思う。またこれを乱用された時のような不愉快はない。
私達は、人が私達に施そうとする親切を乱用しないように努めると同時に、また私達の親切を乱雑に施与しないように充分注意すべきである。
完