愛 の 賞 賛
(コリント前書13章とその考察)
明治38年8月10日
1節 仮令(たとえ)我人の言(ことば)を語り、又天使(てんのつかい)の言を語る
とも、若し愛なくば、鳴る銅(かね)又は響く乳鉢となりしなり。
言語は如何に美しく、如何に博(ひろ)くても、たとえ私にギリシャ人が羨望して止まないリシヤス(
http://en.wikipedia.org/wiki/Lysias )、デモセニス(
http://en.wikipedia.org/wiki/Demosthenes )の弁があっても、そしてこれに加えて、私に人以上の天使の美音麗韻があるとしても、
またたとえ私がよく万国の語に通じ、ギリシャ、ラテン、エジプト、ペルシャの人に、その国の語で語ることが出来るとしても、そしてこれに加えて、「天使の語」であると称せられるヘブライ語によって、自由に神の奥義を語ることが出来るとしても、
たとえ私の言葉が如何に美しくても、私の使う言葉が如何に博くても、もし私に愛がなければ、私は鳴る銅(かね)または響く乳鉢となったのである。即ち私は、意味のない音を発する器具に化したのである。
愛のない能弁は、言語ではない。音響である。沈黙は、これに優って遥かに美しい。
2節 又仮令我に預言あり、我又すべての奥義とすべての学識に達し、又山を移
す程なるすべての信仰ありと雖(いえど)も、若し愛なくば、我は無なり。
能弁と博言とは、ギリシャ人が羨望するものである。しかし、これに加えて愛がなければ、二者は等しく意味のない音響であるに過ぎない。
預言は、ユダヤ人が追求するものである。彼等は、イザヤ、エレミヤ、ダニエル、アモスと同列になりたいと思う。しかし、たとえ私に預言が降り、私がまた、預言の源である奥義を知り、またこれに伴う全ての学識に達しても、
またそれだけでなく、預言と奥義と学識とに、山を移せるほどの信仰を加えるとしても、即ち私に
最高の預言と、
最強の信仰があっても(「すべて」という語の意味はこれであろう)、もし私に愛がなければ、
私は無である。私は無きに等しい者である。
私の預言と奥義と学識と信仰とは、私に何の価値をも添えないのである。私は、私が天より授けられた預言または学識または信仰のゆえに多少価値があるに止まって、私自身においては、何の価値さえ無いのである。
私に愛があって、私は始めて価値ある者となるのである。なぜなら、愛以外のものは、すべて私の霊性以外のものであって、私のものと称することが出来ないからである。
天才は財産と異ならず、私に委託されたものである。私のものではない。神のものである。私達は、いつかこれを神に返納する時があるであろう。しかし愛は、私の霊の性であって、私の本当の財産である。そしてもし、私にこの財産がなければ、私に知があり、信があっても、私はなお無一物の貧者である。
3節 仮令我れ我がすべての財産を施し、又誇らんために我身を予(あた)ふとも
若し愛なくば我に益なし。
愛のない言語は、意味のない音響である(第1節)。愛のない信仰は、無信仰である(第2節)。
そして愛のない慈善はどうか(第3節)。これは無益な業である。たとえ私が貧者を養うために、私の全ての財産を施し、いやそれに止まらず、自分の慈善について誇るために自分の生命さえも彼等のために供するとしても、もし愛がなければ、私は私の割愛犠牲から、何の益をも得られないのである。
貧者は私の施与によって益を受けるであろうが、愛なしに、誇るために為した私の慈善は、
私には、何の益をも供さないのである。愛のない慈善は、純粋の損失である。名を得ようとし、また過去の罪業を償(つぐな)おうとしても、少しもその目的を達することは出来ないのである。
(原語の Kautheisomai《焚かるゝ》は、Kaucheisomai《誇る》と改正する方が適当であろう。)
4節 愛は永く忍ぶなり。又人の善を図るなり。愛は妬ま(ねた)ざるなり。誇
らざるなり。高ぶらざるなり。非礼を行はざるなり。
私は愛を語った。しかし、愛とはそもそもどのようなものか。私は先ず、それが何を
するのかについて語ろう。
愛は永く忍ぶ。愛は広量である。大度である。彼女は海のようである。広くて深い。彼女は怒らないのではない。しかし、容易には怒らないのである。
彼女はよく凌辱(りょうじょく)に耐え、嘲弄に耐え、罵詈(ばり)に耐え、冷遇・虐遇に耐える。愛は気長である。彼女は、事を為すのに永遠を期す。彼女は、人の堕落を聞いて失望しない。彼女は、よく百年千年を待つことが出来る。
愛は、永く忍ぶ。人の悪を赦す。しかし、愛は寛大なだけではない。進んで
人の善を図る。受動的に赦すだけでなく、また活動的に助けるのである。自分の利益のために人の善を図るのではなくて、その人のために、また善そのもののために善を図るのである。
自分を人の地位に置き、自分の益を図るように、その人の益を図るのである。
善を為そうとする熱情、これを称して愛と言うのである。愛は自他の区別をせず、自らが人にしてもらいたいと思うことは、また人にもそのようにするのである。
愛の為すことは、そのようなことである。即ち受動的には悪を忍び、活動的には善を図る。私は、愛が
しないことについて言おうか。
愛は先ず第一に
妬まない。愛は自己を以て足りるものであるから、人の成功を羨み、その優秀を妬む必要がない。富者に競争があり、学者と宗教家に嫉妬があるが、しかし、愛の満足に居る者は、猜疑・羨望の邪念に侵されない。
愛は活きている泉である。与えることを知って、受けることを知らない。自己に満ち満ちているので、人の充溢を聞いて憤ることはない。愛に在って、貧者は富者を憤らず、愚者は学者を羨まない。
愛は、人生終局の善かつ美である。愛に達して、人は全ての慾望を絶つに至る。金を有(も)つ者は、銅、鉄、または鉛を有つ者を羨まない。それと同様に、愛に在る者は、金銀、宝貨、学識、天才を有する者を妬まない。愛に嫉妬はない。そうです。神の愛に達してのみ、私達は始めて嫉妬以上の人となることが出来るのである。
愛は第二に
誇らない。自己の善を衒(てら)わない。自分のことを進んで世に紹介しない。愛は内気である。自己に充足しているからである。愛は
名を売って世の賞賛を買う必要がない。
人が誇るのは、自分の
真価以上に人に評価されようとするからである。しかし、純金はメッキする必要がないように、真愛は、これを衒う(誇る)必要がないのである。金は金である。愛は愛である。愛に在る者は、「
量(はかり)を踰(こ)えて誇らざるなり」(コリント後書10章13節)。
愛は第三に
高ぶらない。弱者、貧者、劣者の上に権柄(けんぺい)を揮わない。愛は謙遜である。殊に下輩に対して謙遜である。上輩または同輩に対して
誇らないだけでなく(その歓心高評を得ようとして)、また下輩に対して
高ぶらない。
愛には、自他の差別が無いだけでなく、また上下、貴賎、賢愚の分け隔てがない。愛は上に向って誇らず、下に向って高ぶらないのである。
愛は第四に
非礼を行わない。礼にはもちろん虚礼がなくはない。しかし、虚礼があるということで、礼は全く排斥すべきものではない。
礼は人に接する適切な道である。
人は誰でも人として敬しなければならない。人の感情は、ゆえなくこれを損なってはならない。人の権利は、これを侵してはならない。
もし誠実に語るならば、何を語ってもよいというようなこととか、もし公益を計ろうと思うなら、個人の権利などは顧みる必要がないと思うようなこととかは、
人に接する適切な途ではない。
愛は誠実以上である。また正義以上である。愛は感情を重んじる。ゆえに言語を慎むのである。友情の毀損を恐れるのである。愛は小者の権利を重んじる。ゆえにその動作を慎むのである。いと小さな者を躓かせて、神の怒りに触れることを恐れるのである。
愛は即ちゼントルマンの要素である。富があり、知識があり、権力があっても、未だゼントルマンではない。人に対してこの細心・優思があって、人は始めてゼントルマンなのである。愛のない富者は、
紳士ではあろう。しかし、ゼントルマンではない。愛のない学者は、
偉大な人物ではあろう。しかしゼントルマンではない。
キリスト信者には、婦人のような繊細優美さがなければならない。彼は、ただ粗大であってはならない。正義一方の人であってはならない。非礼を行わない注意深い人でなければならない。
(以下次回に続く)