私の好む人物
明治38年8月10日
私はキリスト信者として、全ての人を愛すべきではあるが、しかし私にも好きな人と嫌いな人がいる。嫌いな人でも、もちろん私の敵ではない。私は、嫌いな人ほど、その人に対して、私が為すべき義務を尽さなければならない。
そうは言っても、私は全ての人を、同様に好むことは出来ない。これは、私の天性がそうさせることであって、止むを得ない次第である。
甘い物の好きな人もいれば、辛い物の好きな人もいる。私の嗜好は、道徳によって縛ることが出来るものではない。
私が好む人物は、
第一に常識の人である。常識とはもちろん、世才という意味ではない。世才の人は、私は大嫌いである。
常識の人とは、原因結果の理をよく弁えた人である。天然普通の理に従って行動する者である。
私は奇跡を信じるが、しかし、理由のない奇跡は、これを信じないつもりである。私はたびたび世論に反対するが、しかし私一人の判断によっては、これに反対しないつもりである。私が世論に反対する時には、私は私の知る世界の知識を基に反対する。
私は自分が、この世が在って以来の最初の知者であるとは信じない。私が有(も)つ少しばかりの知識は、私が古人から受けたものに、わずかばかりの自身の発見を加えたものであって、決して私一人が懐く知識ではない。
そして常識は、知識界における私の適当の地位を教える。私はあることを知る。しかし、全てのことを知ってはいない。ゆえに私の行動の方針を定める時には、私は私が知っている世界最大の知者の指導を仰がなければならない。それを為すのが常識であると思う。そしてそれをしない人は、常識を欠く人であって、私が好む人ではない。
私は、
第二に快活な人を好む。陰鬱な人は、私は大嫌いである。私は、心の奥底まで透き通って見えるような人を好む。
山中の湖水のように、透明で深い人を好む。私は、自分を覆い隠そうとする人を好まない。私は、天真有りのままの人を好む。
私は、隠すものがなく、また、これを隠そうと思っても、隠せない人を好む。私は、自分を他人の前に吐露して、恥じることのない人を好む。
私は、自分独り高くに止まって、他人を眼下に見下ろす人を好まない。また自分の周囲に高い城壁を構えて、自分の内部を人に覗かせないようにしようと努める人を好まない。
私の理想は、清空である。水晶である。山間の渓流である。もし清水に魚が住まないならば、住まなくてもよい。私は、私の心の水を濁してまでも、ナマズやドジョウの類を迎えようとはしない。泥水を愛する者は、泥水に至るべきである。私は私の心の中に清水をたたえて、そこに天使の姿を映したいと望む者である。
私は
第三に、公平な人を好む。公平な人とはもちろん、無欲の人ではない。人に多少の欲があるのは、止むを得ない。公平な人とは、他人の適当な欲を認め、その権利を重んじる人である。
私は、横着(ずる)い人を嫌う。即ち、自分をなるべく無為の地位に置いて、人になるべく重い責任を負わせようとする人を嫌う。私は、人が担うだけの責任は、自分もまた担おうとする人を好む。
公平とは、責任を平分するという意味である。そして公平な人とは、自ら進んで責任を平分し、自分が担うべき分を担おうとする人である。私はそのような人を好む。責任が軽いことを貴び、これを避けることが出来たと言って喜びかつ誇る人は、私が大嫌いな人物である。
私は
第四に、ノーブル(高気)な人を好む。ノーブルとは英語であって、これには適当な訳語がない。ノーブルには、豪気という意味がある。そして小事に頓着しない点においては、ノーブルは確かに豪気である。
しかしながら、豪気は時には不品行である。放縦である。彼はよく飲み、よく談じながら、彼の妻子が飢渇に迫っていることを知らない。そしてノーブルとは、そのような無慈悲な豪気ではない。
ノーブルとは、豪気に愛を加えたものである。
ノーブルにはまた、高潔という意味がある。そして利欲の念を離れ、俗事に拘泥(こうでい)しない点においては、ノーブルは確かに高潔である。しかしながら、高潔はしばしば独尊である。情のない潔白である。
彼は秋の月のように、皓々(こうこう)としているが、しかし冷ややかである。そしてノーブルは、高いと同時に温かである。
高潔に温情を加えたもの、これがノーブルである。そして私は、
そのように豪気で
そのように潔白な人を好む。
国のため、人のため、社会のためとなれば、時々自分を忘れる人、何故かその理由は知らないが、ある動機に触れて、知らず知らずの間に、ある無私の行為に出る人、これがノーブルな人であって、私が好む人物である。ノーブルな人の反対は、冷算な人である。自覚の観念があまりに強くて、自分を忘れることが出来ない人である。
詩人にしても、預言者にしても、みなノーブルな人である。彼等は冷静な哲学者ではない。また、周到な政治家でもない。彼等は、世にいわゆる知者ではない。彼等は、ある時は前後を忘れて動く者である。
天啓に接した盲人のような者である。
彼等は、何を言いつつあるのかを知らない。また、何をしつつあるのかを知らない。彼等は自分を、高いある他の勢力に委ねた者である。
この高尚な盲目的な所のない人、何事をも自覚し、何事をも精算し、何事をも探り究めなければ、事を為さない人、注意一方の人、これは私が好まない人物である。私は時には、猛進する人を好む。私は時には哲学を離れて、詩的観念で動く人を好む。
私は科学と常識とを貴ぶが、しかし、
科学だけの人を好まない。私はグラッドストーンのような、時には政略を忘却する政治家を好む。アガシ(
http://en.wikipedia.org/wiki/Louis_Agassiz )のような、研究室に入って感謝の祈祷を奉げる科学者を好む。
全て貴いこと、全て真実なこと、全て義(ただ)しいことに対しては、心からの同情を表する人を好む。詩歌のない人物、殊に詩歌のない宗教家、これは私の耐え難い人物である。
私は
第五に、独立の人を好む。独立の人とは孤独の人ではない。もちろん唯我独尊の人ではない。独立の人は、高慢になり易い。しかし、独立の人は、もちろん高慢の人であってはならない。
独立の人は、先ず第一に神と自己とに頼る人である。神の偉大な援助力を信じ、また神が自分に与えて下さった驚くべき忍耐力を信じる者である。
独立の人とは、他人の援助と言えばことごとくこれを退ける者ではない。彼は神と自己とを信じる余り、他人の援助を多く要しない者である。
神は賢い造物主であるから、彼は決して私達各自を、他人に頼らなければ何事をも為し得ない者としてお造りになることはない。神が造られた人類は、各自が完備した一小宇宙である。独立は人たる者の本性であって、独立しない者は言うまでもなく一人前の人間ではない。
聖書においてさえも、「
爾曹は神なり」(ヨハネ伝10章34節)と書いてある。私達は、ある意味においては、確かに神である。即ち自らある確実なことを行うことの出来る者である。
ところがこの事を忘れて、「人は社交的な動物である」というギリシャの哲学者アリストテレスの言葉を盾に取って、依頼することを恥じない人が多いことは、実に驚くべき限りである。
私は、依頼の人を、一人前の人とは見ない。彼は半人前の人か、あるいは四分の一の人である。そのような人が好ましくないことは、言うまでもない。
私は
第六に、労働の人を好む。読書の人、美術の人、音楽の人、演説、説教の人を好まなくはないが、しかし、鍬(くわ)を取り、槌(つち)を振り上げる人に比べれば、私が彼等を好むことは至って少ない。
私が嫌いな人と言って、怠け者ほどの者はいない。私は、怠惰は大罪悪であると信じる。
世に最も神聖なものは、高壇に立って説教することではない。田園に出て働くことである。働かない者は、神を知らない。神について最も疎い者と言って、神学者や教役者ほどの者はいない。ゆえに私は、労働者を愛するだけ、それだけ世にいわゆる宗教家なる者を嫌う。
その他、私の好き嫌いを言えば、数限りがない。しかし、これらが先ず私の嗜好の主なものである。そうは言っても、私は自分の理想にかなう完全無欠な者であると信じるのではない。
私はたびたび自分の理想に反し、自分自身を忌み嫌う者である。如何なる嫌悪でも、自分に対して懐く嫌悪ほど辛いものはない。
私が好む人物はその通りであるとして、さて、そのような人物はどこにいるかと言うと、どこにでもいる。政府部内にもいよう。しかし多くはいまい。民間の政治家の中にも一人や二人はいよう。教会内にもいよう。しかし、私は不幸にも、そこに多くを見ない。
ノーブルであるとか、独立であるとか言うことは、私が見たところでは、今のキリスト教会には至って少ない。いや、ノーブルであれば、今の教会にはいたたまれないのが常である。もし独立を主張すれば宣教師に嫌われ、宣教学校から追い出される。今のキリスト教会なるものは、高気、独立を養う所ではない。
私は、私が好む人を、最も多く平人の中に発見する。政府にも政党にも教会にも、何の関係も有(も)たない人の中に発見する。百姓の中に、職工の中に、町人の中に発見する。いわゆる学生の中には、あまり多く見ない。
学生は少し学問を修めると、直に生意気になる。同時に怠ける。学問を続けたくて、主義を売り、独立を捨てる。社会の状態を顧みて、自分の地位の安然を計ろうとして、万事に注意深くなって、言うべきことも言わず、言ってはならないことをも言うようになる。
学生の最大多数は、少しばかりの学問と、身の快楽のために、自分の自由と霊魂とを売る者である。今の社会において最も unheroic (非勇)な者は、学生の中に多い。私は、容易に今の学生を信じない者の一人である。
そうは言っても私は、もちろん愛すべき学生がいることを疑わない。しかし、その発見が非常に困難なことを見て、いっそう深く、いまの学生社会の腐敗堕落を感じる者である。
私は、自分がキリスト信者であるから、私の好む人は主にキリスト信者の中にいるかと言うと、決してそうではない。いや、私は私の最も好まない人を、キリスト教信者の中に発見する。
熱心家と称して、科学的常識に全く欠乏する人、韜晦(とうかい
:ここでは、「人の目をくらます」という意味)を愛して、透明を避ける人、いや、透明を暗愚であると嘲る人、非常にずるい人、依頼の人、怠ける人、これらは私が今のキリスト教会において遭遇する人物である。
私も多分彼等の目から見たならば、欠点だらけの人であるだろう。しかしながら、私が今のキリスト教会なるものに耐えられない理由は、私一人が悪いだけではないと思う。
これに反して、私は私が非常に好む人を、キリスト教界以外において発見する。私が最も好む人の一人は、西本願寺派の某僧侶である。私と非戦論を共にして、永く世の嘲笑を受けた人は、激烈な、キリスト教の反対者である。
その他私の友で、宗教問題には至って冷淡な人も多い。私はもちろん、私の信仰を維持する上で、彼等の主張には、一歩も譲らないつもりである。しかしながら、
友誼(ゆうぎ)は友誼であって、信仰は信仰である。これはこの世の逆説(パラドックス)の一つである。
私達は、たとえ死んでも私達の信仰を捨てることは出来ない。しかしそうは言っても、私達の好まない人を友とすることも出来ない。宗教と友誼とは、全く別物である。
もちろん、同主義の人が、同宗教を信じるに至って、最も深い友誼が起こるのは言うまでもない。そして私は幸いにも、少しはそのような友人を有(も)っている。「我等の心をキリストの愛において結ぶその愛は、祝すべきかな」。これは友誼の最上である。
しかしながら、そのような友誼は、金剛石が稀なように、稀である。そして金剛石を瓦礫のようにお与えにならない神は、そのような友人を多く与えて下さらない。これを一つか二つ有てば充分である。ああ、キリストに在る友人! 私はどのようにこれを評価したらよいのか。
************************
人その友のために己の命を捐(す)つるは、之より大なる愛はなし。すべて
我、汝等に命ずる所の事を行はば、則(すなわ)ち我友なり。今より後、我
爾曹を僕と称(よ)ばず。そは僕は其主の行(な)すことを知らざればなり。我、
先きに爾曹を友と呼べり。我、汝等に我父より聞きし所のことを、尽(こと
ごと)く告げしに拠る。 (ヨハネ伝15章13〜15節)。
これは、貴いキリストの言葉である。世に最も親密な関係は、親子でもなければ、兄弟でもなければ、夫婦でもなければ、師弟でもなければ、君臣でもなければ、同政党員でもなければ、同教会員でもない。
世に最も深い関係は、友人の関係である。全ての関係が友人の関係となるまでは、永久の関係となることはできない。
父子も互いに友人となって、最も親密な父子となるのである。兄弟も夫婦も君臣も師弟も同じことである。私達は、夫婦であるよりも、先ず友人でなければならない。君臣であるよりも先ず友人でなくてはならない。神でさえも、私達卑しい人間と深い関係に入ろうと思えば、先ず私達と友人の関係に入られる。
友人とならずに政党員となったからと言って、教会員となったからと言って、何でもない。私達が今の教会なるものに重きを置かないのは、私達と教会とが友人の関係になったものでないからである。
監督があり、牧師があり、執事があって、今の教会は小政府であって、家庭ではない。友誼的団体であるクラブではない(語弊はあるが)。そのような所は、霊魂を養う所ではない。今の教会なるものは、裁判所の一種である。私達の欠点を指摘・詰責されるための所である。誰がそのような所に安心しておられようか。
しかしながら、キリストの教会は、もともとそのようなものではなかったろうと思う。
教会とは、実に友人の団体であったのであろうと思う。即ち友誼という人間の最も深い関係によってつながれた団体であったのであろうと思う。
その建設の初期に当たって、これに非常な発達力があったのは、全くそのためであったろうと思う。ところが後世の「宗教家」なるものが出て、この神がお造りになった美しい友人の団体を、政府の一種に変えてしまったのであろうと思う。
私の霊魂は、実にそのような教会を要求する。私はキリストの友となって、また彼の友を私の友人として有(も)ちたく思う。ああ、そのような教会を、今日起こすことは出来ないであろうか。
しかし、もし今日直ちに、
友人の教会、または
教会の友人を有つことが出来ないならば、私は教会がなくても友人を有ちたいと思う。
教会が無いことは忍ぶことが出来る。しかし、友人が無いことは、忍ぶことが出来ない。
ゆえに私は、キリストの教会が建つのを待ちつつある間は、すなわち少しでもその建設に貢献しつつある間は、私の霊魂が慕う少数の友人を、私の心の奥室に迎え、そこで出来得る限り彼等を歓待して、この冷酷な世に在る間、天国に在るような清い霊交を味わいたいと思う。
完