親愛宥恕の途
(ロマ書12章14節から21節まで)
明治38年9月10日
14節 汝等を迫害する者を祝せよ。祝して呪うべからず。
15節 喜ぶ者と偕(とも)に喜び、哀(かなし)む者と偕に哀むべし。
16節 相互に対し、同一の事を念(おも)ふべし。高き思念(おもい)を懐くべか
らず。反(かえっ)て低きに就くべし。自己(おのれ)を智(さと)しとする勿
れ。
17節 何人に対しても、悪を以て悪に報ゆべからず。すべての人の善と看做す
ことは、努めて之を為すべし。
18節 為し得べき限りは、汝等よりしてはすべての人と相和(やわら)ぐべし。
19節 愛する者よ、自から讐(あだ)を復(かえ)す勿れ。退きて、主の怒に任せよ。
そは録(しる)して、「讐を復へすは我にあり。我之を報ゆべしと主は曰ひ
給ふ」とあればなり。
20節 否な、汝の敵若し飢(うえ)なば之に食はせよ。渇かば之に飲ませよ。そ
は此(か)く為して汝は、熱炭(あつきひ)を彼の首(こうべ)に積めばなり。
21節 汝、悪に勝たるゝ勿れ。善を以て悪に勝つべし。
14節 「汝等」 キリスト信者に対して言う。汝等天国の市民たる者は、そのように為すべしということである。キリストを信じない者は、そのようにすることは出来ない。彼等に敵を愛する深い動機はない。
彼等は、復讐は正当な権利であると信じている。しかしあなたたちは、
新しい律法を学んだ者である。あなたたちの道義的観念は、全く彼等のそれと異なる。あなたたち主に在って無限の財宝を天に蓄える者は、この世の事に関しては、全く譲退の態度を取るべし。
◎ 「迫害する者」 あなたたちの信仰ゆえに、あなたたちが為すことは、彼等が為すことと、全くその趣を異にするので、彼等はあなたたちを忌み嫌う。
また、あなたたちが、キリストの教えられた無抵抗主義を守るゆえに、あなたたちをあなどり、あなたたちを蹴倒して、あなたたちに唾(つばき)することを快楽とする者を祝しなさいと言うことである。
真正のキリスト信者が出て、始めて迫害というものがあるのである。キリスト信者のように弱くて無欲な者が出る前は、世に迫害なるものは起こらないのである。
迫害は、信者に取っては、彼がキリストに在って、新たに生れた事実の確証である。不信者に取っては、彼が再生の恩恵に与ることが出来ないことを自覚することから来る嫉妬と怨恨の発表である。
恩恵が臨んで迫害が起こる。恩恵のない所に、迫害はない。実は迫害ほど世に望ましいものはないのである。
◎ 「祝せよ」 そのために幸福を祈りなさい。単にその罪を赦すだけでは足りない。進んで彼が幸福になることを祈りなさい。彼が神に受納されることを祈りなさい。彼が悔改めて、父なる神に帰って来ることを祈りなさい。
あなたたち自身も、かつて一度は神に逆らった者、善を憎み、悪を愛した者、即ち迫害者であった。ところが神は、今あなたがたを恵み、迫害される者とされた。今あなたがたに迫害を加える者もまた、同一の恩恵に与ることが出来ない道理があろうか。ゆえに彼等が神に恵まれることを祈りなさいと。
◎ 「呪ふべからず」
祝せよの反対である。悪事が彼の上に降りかかることを祈るな。呪詛は、復讐の最も甚だしいものである。
あなたたちキリスト信者は、手を下して仇を報いてはならないだけでなく、また心においても、復讐の念を懐いてはならない。私達は、思念(おもい)においても行為においても、全く私達の敵を赦し、さらに進んでその幸福を祈るべきであると。
15節 同情推察の心を養成せよ。そして、先ず
喜ぶ者と偕に喜ぶ心を懐け。これは、キリスト信者が特に為すべきことである。
哀む者と偕に哀むことは、不信者といえども、よくこれを行うことができよう。彼等は人が悲哀に沈むのを見て、自分がその人に優ってはるかに幸福なことを知って喜ぶのである。
世人のいわゆる同情推察なるものは、深くその源を究めれば、自尊自足の情に他ならないのである。憐憫(れんびん)は、多くの場合においては傲慢である。恩を人に売ることである。自分の繁栄を、人に誇示することである。
これはもちろん、恩を施さないのに優るが、しかし最上の同情と称することは出来ない。キリストの愛は、憐憫以上である。これは、悲しむ者と共に悲しむだけに止まらずに、進んで、喜ぶ者と共に喜ぶことである。
愛は妬まず、また誇らない。人の境遇が自分のそれに優っているのを見ても、それを妬まないだけでなく、反ってこれを喜ぶのである。人の立身を聞いて喜ぶのである。人の成功を見て喜ぶのである。人が自分の上に立つに至るのを知って喜ぶのである。
そしてあなたたち籍を天国に移した者に、キリストのこの心がなくてはならない。
16節 「相互に対し」 全ての人に対し、殊に信仰の兄弟姉妹に対し
◎ 「同一の事を念ふべし」 「
汝等念(おもい)を同ふし、愛心を同ふし、意(こころ)を合せて念ふことを一にすべし」(ピリピ書2章2節)。
あなたたちは、自分のことについて思うように、また兄弟のことについて思うべきである。即ちあなたたちの思いに、自他の差別があってはならない。自分のことは兄弟のこと、兄弟のことは、自分のことであるべきである。
あなたたちの行為は、自分に対しても、また兄弟に対しても、差別があってはならない。即ち
愛の律であるべきである。
私達は、「
各人キリストに於て一体(ひとつからだ)たれば、亦互に其肢(えだ)たる也」(第5節)。手の欲するところは、また足の欲するところであって、足が求めるところは、また手の求めるところである。
手と足とは同一のことを思うのである。あなたたちキリストに在る兄弟姉妹もまた、そのようにすべきである。
◎ 「高き思念(おもい)を懐くべからず云々」 自分について、高い思念を懐いてはならない。反って自分は低くあるべきである。
高ぶりの心ほど、平和一致を欠くものはない。自分を中心とし、他は悉く自分に仕えるべき者と思っていては、調和は破壊されざるを得ない。人は誰でも、主人公であろうとする思念を放棄して、下僕となる覚悟を決めなさい。
人に奉仕されようと思わずに、人に仕えようとしなさい。これがキリストの心である。奉仕を社会から要求し、国家から要求し、家族から要求していては、平和一致は望めない。家族主義に依って成る、東洋の国家に、温情和楽が見られないのは、キリストのこの心に欠けているからである。
◎ 「自己を智しとする勿れ」 箴言3章7節の言葉を、あなたたちの心とせよ。自分で自分の価値を定めるな。神と人とを離れて、自己について思ってはならない。自己は教会(キリストの体)の一分子(一肢)であることを忘れてはならない。
権利を有すると同時に、また義務を担う者であることを記憶せよ。自己を特別に聡明な者、特別に高貴な者と思ってはならない。
人が互いに相異なるのは、彼が神から「
賜はる所の恩恵に藉(よ)りて賜を異にするに因る」(第6節)。王者は王者ではない。学者は学者ではない。各自はその「
信仰の量(はかり)に循(したが)ひて」(同上)神と同胞のために尽す者であるに過ぎない。
17節 「何人に対しても」 信者に対しても、不信者に対しても、内国人に対しても、外国人に対しても、人という人に対して、あなたたちキリストの僕であり天国の市民である者は、悪を以て悪に報いてはいけないと。
復讐は、この世の人は正当な権利であると見なしているが、この世の者ではないキリスト信者は、これを罪悪と見なすべきである。
世にいわゆる「キリスト信者」、英国人、米国人、ロシア人、即ち教会信者の多数が復讐を敢えてし、これを正義であり人道であると賞賛するが、私達はその言葉に、耳を傾ける必要はない。私達は、キリストの言葉をそのまま受け止めて、キリスト信者としての職責を尽すべきである。
◎ 「全ての人の善と見做すこと云々」 衆目が見て、善とすることは、努めてこれを行うべきである。人の批評は、これを顧みる価値がないと見なしてはいけない。顧みる価値のない批評があり、顧みる価値のある批評がある。
世の公評は、多くの場合においては、神の声である。私達は、完全に達するために、努めて世の批評を利用すべきである。「
我等が斯くするは、主の前のみならず、亦人の前にも善からんことを慮(はか)るなり」(コリント後書8章21節)。
18節 「為し得べき限りは云々」 平和は万事を犠牲に供しても保つべきものではない。世には、平和に優ってさらに貴重なものがある。
しかし、為し得る限りは、出来る限りは、全ての人と相和らぐべきである。もし私達の財産を提供することによって平和を保つことが出来るなら、平和を保つべきである。
もし、主義や信仰以外の譲退によって、平和を維持することが出来るなら、平和を維持せよ。
◎ 「汝等よりして」 平和は、止むを得ずこれを破らざるを得ないことがあっても、
あなたたちの方からこれを破るな。
あなたたちの方からは常に平和の手段を取れ。もしあなたたちによって、和戦のいずれかが決せられる場合に臨んだら、あなたたちは必ず和に決せよ。
あなたたちの方から戦いを挑むな。あなたたちの方から争いを求めるな。あなたたちはドコまでも、平和の人でありなさい。そうです。
出来得る限りは、あなたたちの方から、全ての人と相和らぎなさい。
19節 「愛する者よ」 キリストに在って、信仰と望と艱難を共にする者よ
◎ 「自から讐(あだ)を復(か)へす勿れ」 もし復讐すべきことがあっても、自ら復讐するな。この世の法律においてさえ、私人の復讐は、禁じられているではないか。まして天国の法律においてはなおさらである。あなたは如何なる場合においても、あなたを害する者の上に、あなた自ら手を下してはならない。
◎ 「退いて、主の怒りに任せよ」 あなたの敵は、これをあなたの神の手に任しなさい。彼(神)は、唯一の正当な裁判人である。罰する権利は、彼にだけある。彼の怒りに私憤が混じることはない。
彼は、純愛を以てのみ御怒りになる。ゆえに彼の怒りに触れて、人は救われるために罰せられるのである。あなたが自ら仇を返そうとするなら、あなたの敵は永久にあなたの敵として存するであろう。しかし、もし神があなたに代わってあなたの仇を報いるなら、あなたの敵はその罪を悔いて、終にあなたと和らぐであろう。
あなたの敵を神にわたすのは、さらに厳しく彼を罰するためではない。彼を正義の裁判に付して、彼をあなたと和らがすためである。
◎ 「そは録して云々」 旧約聖書にこの言葉はない。これに類するものは、申命記32章35節である。パウロならびにヘブル書の記者は、この言葉を旧約聖書以外のある書から引用したようである(ヘブル書10章30節)。
神の言葉は、必ずしも聖書に限らない。真理は全て神の言葉である。聖書記者は、自由に聖書以外の言葉を引用して、神の言葉が、聖書だけに限られないことを証明した。
◎ 「讐を復(かえ)すは我にあり」 復讐は、我が(神の)事である。人が自ら行うべきことではない。私(神)はあなたたちに依らなければ、悪人を罰することが出来ないと思うな。私には火があり、また水がある。私はまた、直ちに人の良心を責めることが出来るのである。
あなたたちは、自ら剣を抜いて、私(神)に代わって、あなたたちの敵に懲罰を加えると言うが、私はかつて、そのような代理をあなたたちに委ねたことはない。私は自ら、私の僕である全ての人類を処置するのである。
「
汝等何人なれば他人の僕を審判するか。彼の或ひは立ち或ひは倒るゝは、其主に由るなり」(ロマ書14章4節)。
天に代わって不義を討つと称するあなたたち自身の手をよく見てみなさい。それにもまた、責めるべき不義は存していないであろうか。「
此故に凡そ人を裁く所の者よ、汝言ひ遁(のが)るべき様なし。汝、他人を裁くは、正しく己の罪を定むる也。そは裁く所の汝も之を行へば也」(2章1節)。
20節 「否な」 これに反して、仇を返すのに反して
◎ 「汝の敵若し飢なば云々」 箴言第25章21節、22節による、旧約聖書のこの言葉をそのまま実行せよ。敵に対する新約の教訓は、旧約のそれと異ならない。
◎ 「熱炭を彼の首に積む」 二様に解することが出来る。悪に善を以て報いて、あなたの敵の心に羞恥の念を起し、それによって彼の悔改めを促すべきであると、これはこの言葉の普通の解釈である。
あるいは、悪に善を以て報いて、悪をいっそう悪にして、それによっていっそう迅速に、あなたの敵の頭上に、神の怒りを招くべきであるとも解することが出来る。
炭は、火を招くための導火線である。神の怒りに触れて熱し、懲らしめて矯正することが難しい悪人を、焼き尽くすに至るであろう。おそらくこれが、彼を矯正するための唯一の方法であろう。
「
彼は火より脱れ出る如く終に救はれん」(コリント前書3章15節)。二者のいずれに解しても、敵に悪意を表する意味でないことは明らかである。私達の目的は、敵人の改悛にあり、その他ではない。
21節 「悪に勝たるゝ勿れ」 悪を以て悪に報いるのは、悪に勝たれることである。即ち悪の刺激を受けて、これに応じたのである。
悪の刺激は、善によってこれを挫かなければならない。悪は火のようである。火によって火に対すれば、火はますます燃え上がる。悪の火を消そうと思うならば、善の水を用いなければならない。そして火を消す方法は、誰もが知っている。
しかし、悪に勝つ方法は、知者もよく知らない。それで懲罰とか懲戒が必要だと言う。そしてこれを加えれば、悪はますますその猛威を強くする。
悪が恐れるものは、悪ではなくて、実は善なのである。そしてキリストは、自分を悪の手にお渡しになって、悪をその根本において挫かれた。私達彼の弟子である者もまた、彼に倣い、彼の偉業に賛助して、悪の全滅を計るべきである。
完