「私とキリスト」他
明治39年9月15日
1.私とキリスト
キリストのようになるのではない。キリストと成るのである。その手となり足となるのである。私は自己に死んで、キリストを、私に在って活かせるのである。そうすれば、私は欲しなくても、キリストのように成らざるを得ない。
私とキリストとの関係は、道徳的ではない。生命的である。キリストは私の教師ではない。私の救主である。私の生命である。また私の復活である。
2.死と生と
私がキリストのようになろうと思う時に、私にはなお私の生命が残存している。私が自己の無能を認めて、自己をキリストに委ねる時、私は既に死んで、キリストに在って生きるのである。
私達は、キリストのように成ろうと思えば、先ずキリストのように成ろうと思う私達の欲念を絶たなければならない。先ず道徳的に死ぬのでなければ、キリストに在って生きることは出来ない。
私達が殺すべき最後の敵は、クリスチャンであろうと欲する私達の道徳的欲望でなければならない。
3.私の救い
キリストが私の救いなのである。私は彼にならって救われるのではない。そうです。私は彼に倣うことが出来る者ではない。私は自己を脱して、キリストを着せられて救われるのである。キリストを除いて、他に救いはない。
私達は、実にキリストの肢体となって救われるのである。私とキリストとは、相対して在るべきではない。私はキリストと一体と成るべきである。キリストが私に在って生き、私がキリストに在って生きるようにならざるを得ない。
キリストと私との関係は、師と弟子との関係であってはならない。主と従との関係であってはならない。幹と枝との関係であるべきである。同一体における頭(かしら)と手足との関係になるべきである。
4.キリストであれ
私達は、キリスト
信者であることを以て満足するべきではない。キリストとなることを期すべきである。これは、自ら神となろうと思うという意味ではない。キリストに同化され、その義を自分の義とするという意味である。
英語のクリスチャンもドイツ語のクリストも、キリスト
信者と訳すべき言葉ではない。クリスチャンはキリストである。「
我等は彼が身の肢なり。彼が肉より出で、彼が骨より出たり」(エペソ書5章30節)。
クリスチャンはキリスト以外の者ではない。二者が同体であることを解せずには、キリスト教の真義を悟ることは出来ない。
5.キリストに在りて
私は、人の罪を赦すことは出来ない。しかし、
キリストに在って容易にこの事を為すことが出来るのである。
七度を七十倍する宥恕(ゆうじょ)は、私に出来ることではない。私が
キリストに在って為し得ることである。
善を為すのは難しい。しかし、
キリストに在ってこれを為すのは容易である。「
我は我に力を予(あた)ふるキリストに在りて、すべての事を為し得るなり」(ピリピ書4章13節)。
6.天国の建設
天国は、今これを身の外に求めることは出来ない。しかし、これを心の中に建てることは出来るであろう。キリストの愛を以て、自由に人の罪を赦して、私は自分の心から憎悪・憤怨(ふんえん)の苦渋を去り、立ちどころに、そこに平和の天国を建てることが出来るのである。
天国は、無限の宥恕が行われる所である。キリストの愛を以てして、罪の世に在る今日といえども、私達は容易に私達の内に、天国を建設し得るのである。
7.ロシアと米国
日本国には二大敵国がある。その第一はロシアである。彼はその併呑(へいどん)主義によって、外から私達を破壊しようとする。その第二は、米国である。彼はその物質主義によって、内より私達を腐蝕しようとする。
我が国の軍人は、剣によって第一の敵を撃退した。我が国の宗教家は、信仰によって、第二の敵を排撃しなければならない。
8.美術と宗教
宗教の深浅(しんせん)は、それが産み出す美術の大小によって知ることが出来るであろう。深い宗教は、大きな美術を産み出す。浅い宗教は、美術を産み出さない。美術のない国民は、宗教のない国民である。
米国に、美術と称すべき美術がないことを見よ。そしてその宗教が取るに足らないものであることを知れ。誰か、米国人から絵画、彫刻、音楽の術を学ぼうとする者がいるであろうか。
それにもかかわらず、私達日本人は、今日まで私達の宗教を、主としてこの美術のない米国人から学んできたのである。私達が信じてきたキリスト教が浅薄で現世的であることは、敢えて怪しむに足らない。
10.ピューリタンの消滅
私は、ピューリタンを尊敬する。彼は実にプロテスタント教の精華であった。彼があったからこそ地球の表面が一変したことは、私が充分に認めるところである。
しかし悲しいことに、ピューリタンは今や米国よりその跡を絶ちつつある。その本拠地であったニューイングランドさえ、今やピューリタンの所有(もの)ではない。ピューリタンは、今や米国の主人公ではない。
その政府も議会も、そして実に、多くの場合においてはその学校も教会も、ピューリタン以外の者に支配されるようになった。
私達が米国を迎えたのは、ピューリタンの米国を迎えたのである。ところが今やピューリタンは、無きに等しいものとなって、米国は私達にとって、精神的に全く要のないものとなった。私達は、私達の師であったピューリタンと共に、米国の今日の堕落を歎く者である。
完