ロマ書第9章
明治39年9月15日・10月10日
(本文は自訳による)
1節 我はキリストに在りて真実(まこと)を語るなり。我は偽(いつ)は
はらざるなり。我良心も亦聖霊に在りて我に証(あかし)す。
2節 即ち、我に大なる憂(うれい)ある事を、我が心に断えざる痛ある
ことを。
3節 そは我は、我の兄弟にして肉によれば我が同胞なる者の為めなら
んには、自身(みずから)はキリストより離れてアナテマたらんことを欲
(ねが)へばなり。
4節 彼等は実にイスラエル人なり。世嗣(よつぎ)又栄光(さかえ)、契
約又律法、祭儀又約束は皆な彼等のものなり。
5節 列祖は又彼等のものなり。而して肉体によれば、キリストも亦彼
等より出たり。彼は万物の上にありて、世々讃美すべき神なり。アーメ
ン。
6節 斯く言へるは、神の言葉は地に堕(お)ちたりと謂(い)ふにあらず。
そは、イスラエルより出たる者悉(ことごと)くイスラエルにあらざればな
り。
7節 亦アブラハムの苗裔(すえ)なればとて、悉く其子たるに非ず。唯
イサクより出る者汝の苗裔と称へらるべしと録(しる)されたり。
8節 即ち肉の子たる者、神の子たるに非ず。唯約束の子たる者、是れ
その苗裔とせらるゝ也。
9節 約束の言は是なりき。即ち期到らば我来らん。而してサラに男子
あるべしと。
10節 而巳(のみ)ならず。リベカ亦我等の先祖なるイサク一人によりて
孕(はら)みし時、
11節 其子未だ生れず、又善をも悪をも為さざりし時、行(おこない)
に由るに非(あら)ず、唯召し給ふ者に由るとの予定による神の聖図(せい
と)の存立せんため、
12節 彼女に言ひ給へり。長子は次子に事(つか)へんと。
13節 録(しる)して我はヤコブを愛し、エサウを憎めりと有るが如し。
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14節 然らば我等は何を言はん乎(か)。神に不義ある耶(や)。勿論なし。
15節 彼がモーゼに言ひ給へるが如し。即ち我れ恵まんと欲する者を
恵み、憐(あわれ)まんと欲する者を憐むと。
16節 即ち欲する者にも由らず、走る者にも由らず、唯恵む所の者に
由る。
17節 聖書は又パロに告げて言ふ。我れ是故に汝を起せり。即ち汝を
以て我が権能(ちから)を顕はさんため、又汝をして普(あまね)く世界に我
が名を伝へしめんためなりと。
18節 斯(かく)の如くにして、彼の欲する者を彼は恵み、又彼の欲する
者を彼は頑硬(かたくな)に為し給ふ。
意 解
◎ 私が言うことは真である。なぜなら、私は独り自ら語るのではなく、キリストに在って語るからである。
彼は真理である。ゆえに彼に在る者は、真ならざるを得ない。
私を疑ってもよい。しかし、
キリストに在る私を疑ってはならない。なぜなら私は彼に在って、彼が真実であるように真実だからである。 (1節)
◎ 私はまた、私の内に存する誠実の有るだけを以て語るのである。私はただ、私の誠実を以てでは、充分であると思わない。私を証明する者は、私以外に二位(ふたり)いる。キリストと聖霊である。私は両者の証明を得て語るのである。 (1節)
◎ 私の良心もまた、私の言葉が真であることを証する。しかし、良心の証だからと言って、私は必ずしもこれを受けない。なぜなら、神を離れた人の良心は、しばしば私達を欺くものだからである。
しかし私の良心は、今や聖霊に在って私に証するのである。聖霊満たされ、また聖霊に照らされて、良心は私に証するのである。そのような良心の証は、信じることが出来る。そして私はその証を得て語るのである。 (1節)
◎ 私が証言しようとする事はこれである。即ち私の同胞、私の骨肉に関することである。彼等の救いに関する事である。この事に関して、私に大きな憂いがある。心に絶えざる痛みがある。私はこの事を思って、断腸の思いなしにはいられない。 (2節)
◎ 私は、実にある時は思う。私の兄弟で、肉によれば私の同胞である者が救われるためには、私自身は救われなくてもよいと。即ち私は、我が救主イエス・キリストより離れて、神に呪われた者となってもよいと。
私は、天の上にも天の下にも、何物もキリストに在る神の愛から、私を離絶することは出来ないことを知っているが、しかし、私はある時は、この無限の愛を犠牲に供しても、私の同胞・骨肉を救いたいと思うのである。
見よ、神の前に私は偽らない。私は実に、私の同胞・骨肉について、この感を懐くのである。 (3節)
◎ 私の同胞・骨肉とは誰か。今は私の敵であり、私の伝道の大妨害者であるイスラエル人その人である。私は彼等が、私のように、キリストによって救われることを欲するのである。
彼等は実に、その救済(すくい)に与るのに充分な資格を備えた者である。世嗣(よつぎ)と言い、栄光と言い、契約と言い、律法と言い、祭儀と言い、約束と言い、これらはみな、彼等に与えられ、彼等から始まったものである。
旧約の恩恵は、全て彼等に与えられたものである。彼等なしには、世は神の心と賜について、知ることはなかった。彼等は神の恩恵の貯蔵者であった。世に彼等ほど恵まれた民などなかったのである。 (4節)
◎ 列祖はまた彼等のものである。アブラハムといい、ヤコブといい、みな彼等イスラエル人の祖先である。彼等は聖(きよ)く貴い血統を引く者である。彼等は、その遺伝性から考えても、キリストの救済から洩れるべき者ではない。 (5節)
◎ それだけではない。ここに彼等について、著大な事実がある。即ち万民の救主であるイエス・キリストが、肉体によれば彼等から出たことがそれである。
キリストは、イスラエル人であってユダヤ人である。彼等は彼を木に懸けて殺しはしたが、しかし彼はギリシャ人またはローマ人ではないのである。キリストは実に、その肉体によれば、イスラエル人である。
彼等が彼によって救われない理由があろうか。それにもかかわらず、彼等は彼によって救われようとは思わないのである。 (5節)
◎ イスラエル人から生れ出たキリスト! 彼は万物の上にあって、世々讃美すべき神である。アーメン、実にそうである。ユダヤ人の光栄はこの上ない。神であるキリストを産んだイスラエル人!
彼等が救われない理由があろうか。それにもかかわらず、今は彼等は神に呪われつつあるように見える。私の内に耐え難い疑惑が存するのは、このためである。 (5節)
◎ 恩恵の独占者とも称すべきイスラエル人が、最後の、そして最大の恩恵であるキリストの救済に洩れつつあると言うならば、ある人は言うであろう。もしそうであれば、神の言葉は地に堕ちたと。
そうではない。私達は深く聖書を究めれば、その事が決してそうではないことを知るであろう。 (6節)
◎ 私は先ず、第一に言いたいと思う。イスラエルから出た者が悉くイスラエルではないと。即ち肉なるイスラエル人が悉く真実のイスラエル人ではないと。私は今、聖書によって私のこの提言を説明しよう。 (6節)
◎ アブラハムの末裔であるからといって、悉くがアブラハムの子であるわけではない。
私達の先祖にアブラハムがいると言って、神の選民だと自らを任ずる者は、未だ深く聖書を究めていない者である。
アブラハムには、二人の子供がいた。その下女ハガルから生れたイシマエルと、正妻サラから生れたイサクとである。ところが神は、アブラハムに言われた。「
唯イサクより出る者汝の苗裔(すえ)と称へらるべし」(創世記21章12節)と。 (7節)
◎ それによって、肉の子なる者は、必ずしも神の子ではないことを知るべきである。ただ神の約束による子だけが神の子であって、アブラハムの末裔なのである。
イサクがアブラハムの子と称えられたのは、アブラハムの血を受けたからではない。神の約束によって、その恩恵を継いだからである。 (8節)
◎ イサクに関わる約束とは何か。神はアブラハムに言われた。「
明年の今頃、我必ず汝に還るべし。汝の妻サラに男子あらん」(創世記18章10節)と。
それによって、イサクがアブラハムに生れたのは、神の特別の賜としてであることを知ることが出来る。彼の肉より出たといっても、彼が欲して得た者ではないのである。イサクがアブラハムの子であることは、神の御心によってである。 (9節)
◎ 人はあるいは言うであろう。イシマエルは、下女が生んだ子であり、したがって嗣子(よつぎ)にはなれない。イサクがアブラハムの嗣子であったのは、彼が正妻の子であったからであると。
しかし、正妻の子が必ずしもアブラハムの裔ではない。その事は、同じく私達の先祖であるイサクが、その正妻であったリベカによって生んだ二人の子の場合に照らして見て明らかである。父一人、母一人で生んだ二人の子は、どうなったか。 (10節)
◎ それ等二人の子が未だ生れず、また善をも悪をも行っていない時に、神はその母リベカに言われたではないか。「
長子は次子に事(つか)ふべし」(創世記25章23節)と。
これはいったいどうしてか。神の言葉が地に堕(お)ちずに(第6節)、予定によるその聖図が存立するためである。即ち人が選ばれかつ救われるのは、彼の行いによるのではなく、彼を召される者の意志によるという真理が存立するためではないか。
リベカの二子ヤコブとエサウとの場合において、血肉の関係は、約束の子となる資格を作ることは出来ないという真理が証明されたではないか。 (11、12節)
◎ 聖書はまた記して言う。「
我はヤコブを愛しエサウを憎めり」(マラキ書1章2、3節)と。即ち神は事実上、ヤコブの子孫であるイスラエル人を愛し、エサウの子孫であるエドム人を憎まれたと。
同一の胎から同時に出た二人の兄弟といえども、約束の子の子孫は恵まれ、約束のない者の子孫は呪われたのである。 (13節)
◎ それでは約束のことについて、私達は何と言おうか。神に不義があるか。神に不公平があるか。これは、ある人達が言いたいと思うことであろう。しかし、もちろん決してそうではないのである。 (14節)
◎ 神はモーゼに何と言われたか。「
我れ恵まんと欲する者を恵み、憐(あわれ)まんと欲する者を憐む」(出エジプト記33章19節)と。即ち、恵むのも憐れむのも神の御心にあるのではないか。
即ち、恵まれるのは、恵まれたいと欲する者の意志にも行為にもよるのではなく、ただ恵もうと欲する者の御心に存するのではないか。 (15、16節)
◎ 恵まれたモーゼに対しては、神は前のように言われた。また呪われたエジプト王パロに対しても、彼はそのように言われた。即ち、「
我是故に云々」(出エジプト記9章16節)と。
パロが歴史の上に現れたのは、自ら好んでではない。神が彼を起こされたからである。パロは神の権能を表し、その名を普(あまね)く世界に伝えるための機関として、世に送られたのである。
モーゼもそうである。善人もそうである。悪人もそうである。神の御心によらずには、善人は善を行えず、悪人は悪を為すことを許されない。 (17節)
◎ このようにして、神は御自分が欲する者を恵み、また御自分が欲する者を頑(かたく)なにされる。歴史は神の御旨の遂行である。人があって事を為すのではない。神があって事が成るのである。
いわゆる聖史なるものも、また俗史なるものも、その源を究めれば、すべて
神史である。神の聖意を離れて、人類の歴史を考えることは出来ない。 (18節)
(以上、9月15日)
(以下次回に続く)