「ロマ書第9章」その2
19節 然れば汝、我に言ふならん。神何ぞ尚ほ人を責むるや。誰か其
旨に逆(さから)ふやと。
20節 否よ、オー人よ、汝何者なれば、神に言ひ逆ふや。造られし者
は造りし者に向て汝何故に我を此(か)く作りしやと云ふべけんや。
21節 又陶器師(すえものし)は同じ粘土の塊(かたまり)をもて、一の器
を貴く、一の器を賎(いやし)く造るの権あるに非ずや。
22節 然れども若し神其怒を彰(あら)はし、其能力(ちから)を示さんと
欲し給ふにも関はらず、滅亡(ほろび)に備はれる器を永く耐え忍び給ひし
に於ては、
23節 又栄光に預(あらかじ)め備へ給ひし憐憫(あわれみ)の器に其栄の
豊かなるを示さんとし給へば(我等何の言ふ所あらんや)。
24節 憐憫の器とは、ユダヤ人のみならず、亦異邦人の中よりも彼が
召し給ひし我等なり。
25節 ホゼヤの書に於て言ひ給ふが如し。
我は我が民ならざる者を我が民と称へ、
愛せざりし者を愛せられし者と称へん。
26節 又汝等我民ならずと言はれし処に於て
其処に彼等は活ける神の子と称へらるべし。
27節 又イザヤはイスラエルに就て叫で曰ふ「イスラエルの数は海の
砂の如くなれども、唯少数者のみ救はるべし。
28節 そは、主は地の上に其言を充分に且つ速かに行ひ給ふべければ
也」と。
29節 又イザヤが預言せし如し。
若し万軍の主我等に裔(たね)を遺(のこ)し給はざりしならば、
我等はソドムの如く成りしならん。又ゴモラと等しかりしならん。
30節 然れば我等は何と言はん乎。義を追求めざる異邦人は義を得た
り。
31節 然れど義の律法を追求めしイスラエルは、其律法に達せざりき。
32節 何が故にか? 彼等は信仰に由らず、行ひに由て達し得べしと
思ひしが故なり。
33節 彼等は、躓の石に躓きたり。聖書に録(しる)されしが如し。即ち
視よ、我れシオンに躓きの石、またさまたげの磐を置かん。
而してすべて彼を信ずる者は、辱かしめられざるべし。
意 解
◎ 善人が善であるのも、悪人が悪であるのも、神の聖旨(みむね)によると私が言ったことによって、君達反問者は、直ちに私に問うて言うであろう。それでは神は、何故に人の罪を責められるのか。世に神の旨に逆らう者はどこにいるか。
善人も悪人も神が予め定められた者であるということであれば、神には人を責める権利はないのではないかと。 (19節)
◎ そうではない、人である反問者よ。君の反問に正当な理由はない。君は人についてそのような反問を起こすことは出来よう。しかし、神についてこれを起こすことは出来ない。造られた人は、神に向って、あなたは何故私をこのように造られたのかと言うことは出来ない。
私(パウロ)は、神は特に悪人を造られたとは言わない。しかし、もし神においてそのような事があったとしても、人の限りある知で、神の限りない知を量ることは出来ない。
神は全能であって全知である。彼は絶対的に神聖であって、犯すべからざる者である。一国の君主が、どのような罪を犯しても、法律的に罪とならないように、宇宙の主宰である神は、どのような事をされても、私達は彼に罪科を帰することは出来ない。
私達は、神は神として論じざるを得ない。神に人に対する責任はない。責任のある者は、神ではないのである。 (20節)
◎ これを陶器師について思え。かの陶器師は、同じ粘土の塊から、一つの器は、これを貴く造り、他の器は、これを賎しく造る権利があるではないか。神もまた同じである。
私達は、神がお造りになった者である。神が人をどのようにお造りになろうが、人は神に向って呟(つぶや)くことは出来ない。
土器の破片たるに過ぎざるに、
その造主(つくりぬし)と争ふ者は禍(わざわい)なるかな。
土塊(つちくれ)は、陶人(すえものし)に向ひ「汝何を作る乎」と言ふ乎。
父に向ひ「汝何故に生みしや」と言ふ者は禍なるかな。
婦に向ひ「汝何故に産(うみ)の苦しみを為せしや」と言ふ者は禍ひなるかな。
(イザヤ書45章9、10節)
先ず神の絶対的主権を認めよ。その後で神に関して論じよ。 (21節)
◎ 神の主権を犯してはならない。神は思うままに為される。しかし、神は暴虐の神ではない。憐憫の神である。彼は怒ることは遅くて、恵むことは速やかである。
私に対する反問者である君は、神は
気ままな者であると言いたいように見える。しかし、神が為されるところを見よ。彼はその憤怒を表し、悪人の上にその能力を示そうと思われるが、それにもかかわらず、容易に刑罰を行われない。滅亡のために準備された器である彼等悪人を、永く耐え忍ぶではないか。
神がもし気まま勝手であるなら、暴虐的に気ままなのではない。慈悲的に勝手なのである。彼はその絶対的主権を、常に寛容宥恕を以て揮(ふる)われる。
これをパロの場合において見よ。その他全て心を頑なにして神に逆らった者の場合において見よ。彼等は容易にその罪の報いを受けなかったのである。彼等は、彼等が苦しめている者に、幾回か「主よこのようにしていつまで過ごされるのですか」という声を発せさせたのである。
神はある時は、悪人に対して寛容で、善人に対して厳格であるようにお見えになる。事実に現れた神は、寛容過ぎた神であって、厳格過ぎた神ではないのである。 (22節)
◎ 悪人に対して寛容な神は、また善人に対して恩恵(めぐみ)豊かである。彼が終(つい)に悪人を罰されるのも、彼の恩恵がさらに善人に及ぶようにするためである。
彼が為される全ての事の目的は、彼が世の基(もとい)を置く前から、予め栄光に備えられた彼の憐れみを受けるべき器に、彼の栄光を豊かに表すためである。即ち万事万物の目的は、神に召された者に、恩恵が加わるためである。
世に恩恵が増すことが、造化と歴史との目的である。私
(パウロ)はこの事について、後で詳しく論じようと思う(第11章において)。ここではただ、神の主権について、君が誤解しないように、このように一言述べておくのである。 (23節)
◎ 憐憫の器とは何であるか。即ち、神が栄光を表すために予め備えられた者、造化と歴史との目的物、この地の最後の所有主となるべき、最も恵まれた、キリストにおいて神が選ばれた、その選民とは誰か。
これを二種に分けることが出来よう。ユダヤ人の中から選ばれた者と、異邦人の中から選ばれた者とがそれである。私は今、聖書(旧約)の言葉に照らして、これを論じよう。私は先ず異邦人について語ろう。 (24節)
◎ 預言者ホセアの書に言う(ホセア書2章23節)、「
我は我が民ならざる者云々」と。それによって、異邦人が召されて神の選民となるべきことは、早く既に、神が預言者によって宣(の)べられたことであることを知るべきである。
民でない者が民となるであろう。愛されない者が愛されるであろうと。即ち、東から、西から、南から、北から、アブラハムの子でない者が、召されて神の国に入るであろうと。 (25節)
◎ 同じホセア書にまた、「
汝等我民ならずと言はれし処に於て云々」(1章10節)と言われている。
即ち異邦人は、彼等が生れた異邦の地において、ユダヤ人が約束の地であると称したパレスチナの聖地に行くことなしに、「
其処に」、即ち異邦の地に居ながら、「
活ける神の子と称へらるべし」と。
即ち聖(きよ)い者は、ユダヤ人とユダヤ国だけに限らず、全ての民と全ての国とが聖(きよ)められるであろうということである。讃美すべきではないか。 (26節)
◎ 聖書が異邦人について言うところは、その通りである。それではイスラエル人について言うところはどうか。
預言者イザヤは叫んで言う。「
イスラエルの数は海の砂の如くなりと雖(いえど)も唯少数者のみ救はるべし云々」(イザヤ書10章22節)と。
即ちイスラエル人も救われるであろう。しかし、その全てが救われるのではない。その中の少数者だけが救われるであろうと。これは前にも言ったように、神の約束が、血統によらずにその御旨に従って人に臨むためである(7〜13節)。 (27節)
◎ イザヤはまた言った。「
主は地の上に其言を充分に且つ速かに行ひ給ふ」(イザヤ書55章10、11節)と。主の言葉は、行われずに止まることはない。イスラエル人の選択は、充分にかつ速やかに行われるであろう。
審判は、彼等の上に臨みつつある。羊とヤギとは、終に分けられるであろう。エルサレムの陥落、ユダヤ国の滅亡は遠い先ではないであろう。しかしこれは、彼等の中の少数者が救われるためである。私が前に述べた通りである(22節)。 (28節)
◎ イザヤはまた、預言して言った。「
若し万軍の主我等に裔を遺(のこ)し給はざりしならば云々」と。
実にその通りである。もしイスラエル人中に救われるべき少数者がいなければ、エルサレムはその陥落と共に、ソドムのようになるであろう。ユダヤ国は、その滅亡と共にゴモラと等しくなるであろう。即ち消えて跡のない者となるであろう。
しかし、神はその約束の民を絶たれないであろう。そしてイスラエルの裔とは、キリストによって救われるべき、イスラエルの中の少数者である。彼等によって、真正のイスラエル民族は継続されるであろう。 (29節)
◎ 私達は、これらの預言に対して、何と言おうか。これは、どのように要約されるか。それは即ち、義を追い求めなかった異邦人は義を得た。しかも彼等が得た義は、特種の義である。信仰による義である。
これに反して、義を目的とする律法を追い求めたイスラエルは、それが追い求めた律法に達しなかったと。 (30、31節)
◎ 何故そうなのか。何故異邦人が達した義に、イスラエル人は達することが出来なかったのか。その理由を探るのは、難しくない。私達イスラエル人は、信仰によらず、行いによってこれに達することが出来ると思ったからである。
彼等は、義に達する道を誤った。彼等は自ら義人となって、神に義とされようと思った。しかし、これは不可能事である。人は努力して義人になれる者ではない。彼等は自己に依って、神に頼らなかったので、神の義人になることが出来なかったのである。 (32節)
◎ 彼等イスラエル人は、イザヤ書8章14節に言われているように、躓(つまず)きの石に躓いたのである。
また同じ書の28章16節に言う。「
視よ我れシオンに躓きの石またさまたげの磐を置かん云々」と。躓きの石、さまたげの岩とは、十字架に付けられたイエス・キリストである。
彼は、ユダヤ人には躓く者、ギリシャ人には愚かな者である。即ち信仰の妨害物である。憤怒を醸(かも)し、反抗を喚起する者である。
しかし、全てこの岩に頼る者は救われるであろう。この恥辱の死を遂げた彼を信じる者は、恥辱を取らないであろう。十字架に付けられたイエス・キリストを信じてのみ、最終の審判の日に、外の幽暗に追い出されて、そこで悲しみに泣き切歯することはないであろう。 (33節)
(以上、10月10日)
「ロマ書第9章」完