近世婦人の要求
明治39年9月15日
ある日曜日の朝、府下のある高等女学校で教育の任に当たっておられる
貴婦人某が、私の家を訪れ、宗教問題について私に質問されたので、彼
女と私との間に、大略次のような問答が起こった。
問 先生、宗教は実に結構であり、人にはぜひとも無くてはならないも
のですが、しかし宗教はこの世と衝突するものであって、この世を円滑
に渡ろうとするには、信仰は守り難いものです。ゆえに私が殊に先生に
伺いたいことは、世にこの世と衝突しない宗教はないでしょうか。
またキリスト教を信じるとして、この世と衝突せずにこれを信じる道は
ないでしょうか。そのことについて伺いたいと思います。
答
それは、実に困った御質問です。しかし今の世には、そのような質問を掛ける人が沢山います。彼等は、血を流すことなしに、この世から天国に行きたいと思います。
しかしながら、私が見るところでは、甚だお気の毒ですが、そのような便利な宗教は、一つもないと思います。あるいはもし他にあるとしても、私の信じるキリスト教は、決してそんなものではありません。
キリスト教をこの世と調和させようとするのは、火を水と調和させようとするように難しくあります。キリスト教は、その根底において、この世の敵です。ゆえに誠実にキリスト教を信じようと思うならば、この世との衝突は、とうてい免れません。
私はもし貴女(あなた)が世と衝突なしにキリスト教を信じようとされるなら、始めからこれを信じないようにすることをお勧めします。貴女がもし新約聖書をよく読まれるならば、私がここに申し上げることが、決して嘘ではないことを、お認めになります。
問 それはそうであるとして、キリスト教と科学とは衝突しませんか。
その事について、伺いたいと思います。
答
その事についての御質問ですか。その事ならば、私が長々とここで貴女にお答えする必要はありません。
キリスト教と科学との関係を知りたいと思うなら、キリスト教と科学とを、両方ともその根本において、深く研究する以外に、善い方法はありません。
世の、両者の矛盾を鋭く説く者は、たいていは両者を深く究めない者です。あるいは一方を究めて、他の一方を究めない者です。キリスト教に
ついて聞き、科学に
ついて聞いた人だけが二者の衝突を唱えるのです。
もし貴女が、二者の関係を知りたいと思われるならば、一方においては直ちに聖書において、他の一方においては直ちに天然について誠実な研究を続けられることを望みます。貴女は二者の間に、深い深い調和が存することを知って、私に再びこのような御質問を掛けられることがなくなるでしょう。
失礼ながら、貴女は聖書について、ドレほどキリスト教を究められましたか。また天然について、ドレほど科学を究められましたか。それについて私は、貴女に伺いたいと思います。(この問に対する婦人の答えは略す)。
聖書を深く研究してごらんなさい。貴女は貴女の罪深いことについて、恥じられるようになるでしょう。天然を深く究めてごらんなさい。貴女は自分の無学の大きさについて恥じられるようになるでしょう。
人類が、スミレ一本について知るところは、至ってわずかです。スミレ一本についてさえ、世界の大学者が知らないことが沢山あります。
聖書は、自己の罪を示します。天然は私達の無学を教えます。罪と無学、他の調和はさておいて、キリスト教と科学との間に、既にこの調和があることを発見されるでしょう。
問
あるいはそうでしょう。私が先生にさらに伺いたいことは、かの仏教徒
のある者が唱える無我の愛ということについてです。その無我の愛と、
キリスト教でいう愛と、どう違いますか。
私もこの事についてはだいぶ考えてみましたが、絶対者に対する私達の
見地から見て、二種の愛の間に、どういう差異がありますか。その事に
ついて、伺いたいと思います。
答
至って難しい御質問です。私はそのようなことについては、何にも知らないと申上げるより他に道はないでしょう。
無我の愛は何であるか、絶対者は何であるか、それは形而上学の問題です。そして私もそれについて、多少の考えがないではありませんが、しかしそれは、実際の宗教問題ではありません。
愛が何であるかは、形而上学によってこれを究めても分かりません。実際にこれを行ってみて分かるのです。
私達の所有物の中の最も好きな物を他人にも与えてみて、分かるものです。
絶対者云々という問題に至っては、宗教問題とは至って縁の遠い問題です。私達は、堅い論城の上に、私共の信仰を築くのではありません。幾回か繰返された実験の上に立つのです。
私共は、何故にキリストは神であるか、その理論は、よくは知りません。彼と絶対者との関係、彼がこの世に臨んでいた間は、三位の一位が宇宙の他の方面において欠けていたかどうか、これは私共がよく知るところではありません。
もちろんこれらのことについて、私共に多少の意見がないではありません。しかしながら、私共はその問題に満足な知的解釈を施して、その後にキリストを信じるようになったのではありません。
私共は実際的にキリストの血によって、私共の罪を洗われましたから、それゆえに彼を私共の救主として、崇め奉るのです。ドーゾ宗教と形而上学とを、混同しないで下さい。二者は、決して同一のものではありません。
その他二三の、これに類する質問があって後、私は説教後で疲労していることを理由に、これ以上の応答を謝絶したので、婦人はいかにも不満足らしく、私の家を去られた。
完