神学か農学か
実験的に科学と宗教との関係を論じる
明治39年10月10日
私の今の事業は、農業ではない。伝道である。私が今耕しつつあるものは、土地ではない。人の心である。私が今、播(ま)きつつある種は、麦、粟(あわ)、稗(ひえ)、トウモロコシではない。キリストの福音である。
私が今収穫しようとしつつあるものは、果物または穀類ではない。キリストによって救われた人の霊魂である。また私が今漁獲しつつあるものは、ニシン、タラ、サケではなくて人である。
私は今、鋤(すき)を取らずに筆を取る者である。網を引かずに道を説く者である。しかし私は農学を修めた者であって、神学を修めた者ではない。私は、私が学んだものを行いつつある者ではない。私は農学を学んだのに、神学者が従事する伝道に従事しつつある者である。
ゆえに私の同窓の友は言う。私は農学校の生産物ではなくて、副産物であると。また正式の按手礼を受けた伝道師の側から言えば、私は伝道海の密漁者である。私は農学者でもなければ、伝道師でもない。雌雄の性を分かち難い両生動物のような者である。
私は時々思う。私がもし早くから、自分は伝道に従事すべき者であると知っていたならば、私は農学を学ばずに神学を究めたであろうと。そして今日、実際に伝道の業に従事するに当たって、私は少なからず神学的知識の欠乏を感じる者である。
私のヘブル語とギリシャ語の知識は取るに足りない。私は、組織神学または歴史神学または牧会神学または弁証学またはドグマ神学については、ほとんど知らない。
私は形而上学を知らない。私は霊魂不滅を、哲学的に証明することはできない。私は、心(マインド)と霊魂(ソール)と精神(スピリット)との区別を知らない。私はまた、近世の聖書批評学なるものを知らない。
言語学的にガラテヤ書が使徒パウロの作であることを証明することは出来ない。イザヤ書は、一人の作であるか、二人の作であるかを判定することは出来ない。私はまた、教会制度については、全く無学である。
もしこれらのことを知ることが伝道師となる資格を作るのに必要であるとするならば、私は少しもその資格を備えていない。神学は私に合わず、私は神学に合わない。私は今でも、神学を学ばなかったことを深く悔いる者ではない。
これに反して、私は農学を修めたことについて、少なからず神に感謝する者である。私は今に至っても、農事について非常の趣味を懐く者である。
私は心に苦痛を感じる時には、教会堂に入って教師の勧めに与ろうとはせずに、歩を田畑の間に運び、ナスやキュウリが自己を太陽の光線に曝して、何も憂慮することなく成長するのを見て、偉大な慰藉を感じる者である。
花の間を歩む時に、私はしばらくすると慰安の霊が私の霊に臨むのを覚え、言うことの出来ない聖(きよ)い快楽を感じる。
私は教会堂に香のくすぶるのを求めないが、秋の野に熟した稲の香りを嗅いで、神を讃美しようという聖(きよ)い思いを起こす者である。私は流れに魚を見る時は、旧友に遭った心地がし、その銀色の鱗(うろこ)に太陽の光が映じるのを見ては、彼等と共に躍りたいと思う者である。
私が田舎伝道を愛して、都会伝道を嫌うのは、都会人士を恐れてではない。私は、農夫と共に農産物を愛するからである。
「
金環をはめ美はしき衣服を着て会堂に来る」(ヤコブ書2章2節)を見るよりは、風に漂う稲の穂や露をたたえる芋の葉を見たいと思うからである。私は、
神は田舎を作り、悪魔は都会を作ったという言葉を、字義そのままに信じる者である。
こうして私は、今は農業に従事していないが、今でもなお「田舎の子供」である。私は神学についてよりは、農学について多く知っていることを、神に感謝する。
私がもし少しなりとも神とキリストとについて知るところがあるならば、それは神学書と神学者とによってよりは、野と丘と川と海と、その中にある全てのものから教えられたものである。
神御自身に次ぐ私の教師は、トウモロコシである。ビートである。ジャガイモである。牛である。馬である。シギである。ヒヨドリである。コマドリである。サケである。マスである。タラである。
そして冬の夜、天空の晴れ渡った時は、オライオン星である。アルクチュラス星である。私を教えた説教師の中に、これらのものほど雄弁な者はいない。私は彼等によって神を知り、キリストに導かれた者である。
そしてキリスト教の聖書を学ぶ上でも、農学研究は私にとって無上の手引きであった。幸いにも、私が救主として仰ぎ見るイエス・キリストは、神学者ではなくて、労働者であられた。
彼は大工の子ではあられたが、田舎の大工の子であられたので、その思想も言葉も、農夫のそれであった。ナザレのイエスに、ギリシャ哲学も、ユダヤ神学もなかった。
ゆえに「
学者の如くならず、権威を有てる者の如く教へ給ふた」。そしてその権威ある者のような教えは、全て平易な農夫の言葉によって伝えられた。
空の鳥と野のユリ。狐には穴があり、空の鳥には巣がある。ブドウの木、オリーブの木、芥子(からし)種。初めには苗、次に穂が出て、穂の中に熟した穀を結ぶ。種まく者がまこうとして出る。
石地、イバラの中、良い地、実を結ぶことあるいは三十倍、あるいは六十倍、あるいは百倍。羊と牧羊者。豚の食する豆。ハッカ、ウイキョウ及び全ての野菜の十分の一。天国を何に譬えようか、芥子種のようだ。パンだねのようだ。
これ等はみな、農家の言葉である。その意味を解するには、神学は要らない。農業的知識を要する。
私は福音書を読んでこう思う。即ち
福音書は、神学を学ばない者にも分かるが、農業を知らない者には分からない。その優その美は、田園生活に慣れた者だけが、充分にこれを会得することの出来るものであると。
キリストは、もちろん普通の農夫ではない。彼はもちろん農業を教えた者ではない。彼は後世を説かれた。罪の赦しを宣(の)べられた。贖罪と復活と昇天とを語られた。
彼は、地の言葉で語られたが、地の者ではなかった。しかしながら、天の者ではあられたが、地の実物を離れては、語られなかった。彼は「天の福音」と言われて、「絶対的真理」とは言われなかった。「罪の赦し」と言われて、「社会改良」とは言われなかった。
彼は悪鬼を追い出されたが、新知識を供して、無学の幽暗を照らそうとはされなかった。キリストは、確実な地の言葉で、高遠な天の理を語られた。
彼は、野の花のように近づきやすい。しかし、野の花のように意味が深くて、解し難い。彼は、神の懐から直ちに出て来られた者であり、それゆえに青空が凝結(ぎょうけつ)して花となったという、秋の花の紫リンドウのように、親しみやすくて解し難い。神が農家の間に現れられた者、聖なる平民、不朽の神の子!
天然学の長子である農学によって神を知った私は、多くの無益な疑問に苦しめられなかった。私にももちろん多くの懐疑はあった。しかしこれは人生の実際的懐疑であって、哲学者や神学者が懐く思弁的懐疑ではなかった。
農学の研究は私に、事実は事実としてこれを信じるという習慣を供した。何故にニッケル(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%AB )は硼砂球(ほうしゃきゅう)
(ホウ砂: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%A6%E7%A0%82 )に褐色(かっしょく)で現れ、コバルト(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88 )は青色で、マンガン(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%B3 )は紫色で現れるか、
その説明を供せられなくても、褐色だからニッケルだと信じ、青色だからコバルトだと信じ、紫色だからマンガンと信じる悟性を供せられた。
詩人ゲーテは言った。「私は思考することについて思考しない」と。
なにゆえに青は目に青と映るのか、
なにゆえに赤は赤と映るのか、これは思考しても益のない問題である。
私達は、天を仰いで、紅色だからアルデバラン星(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%B3 )であると判断し、青色だからシリウス星(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9 )であることを知る。
科学者が知りたいと思うことは、存在の
理由ではなくて、存在の
有無である。
事実の真相である。信じ難い事とは、有るべきでないと思うことではない。実際に無い事である。
もし実際有るということであれば、または有ったということならば、科学者は何事であっても、これを信じることに躊躇しない。信じ難いX光線の力をも信じる。無線電信の効能をも信じる。
私達は
何故と問うて、その説明を聞くまではこれを信じないというようなことをしない。私達は神の子であると同時に、また天然の子である。ゆえに「ナゼ、何故に」という疑問を起こすことなしに、全ての事実を事実として信じる。
(以下次回に続く)