「伝道師の処世問題」他一編
伝道師の処世問題
ある若い伝道師の質問に対しての応答である
明治39年10月10日
問 先生に第一にお聞きしたい事は、日本今日の教会に関する先生のご意見です。先生はこれについて、どうお考えになりますか。
答 それでは申し上げます。牧師とか宣教師とか伝道師とか神学生と言われる方は、私に会うと、たいていはこの質問を掛けられます。そして私の彼等に対する答はこれです。
即ち私にとっては、教会問題は第四か第五の問題です。私は、教会問題を第一位に置く人は、未だキリスト教の真理を深く味わったことのない人であると信じますと。
私は多くの、信仰の篤いキリスト信者に出会いました。そしてその人達が、私にする質問は、教会についてではありません。キリスト信者が第一に究めるべき問題は、信仰問題です。そしてその信仰さえ確かであれば、その他は別に問いません。
私は天主教会、またはギリシャ教会、または英国監督教会の篤い信者に会いました。そして彼等と私との間に、神とキリストに関する信仰において、大きな一致のあることが分かって、私は彼等の善い友人となりました。
信仰問題を差し置いて、先ず第一に教会問題について語ろうとする人には、教会問題について語っても無益です。
私は、あなたがもし私の信仰についてお尋ねになるならば、喜んでお答えしようと思います。しかし、先ず第一に教会問題についてお尋ねになるなら、その御質問は、お断りします。
問 それでは教会問題については伺いません。次に私が伺いたいことは、キリスト教をあまり深く信じると、世と全く離れてしまう恐れはないか、その事についてご意見を伺いたいと思います。
答 それは無益な恐れです。しかし、政治的な日本人の多くが懐く恐れです。彼等は、何よりも隠遁者となることを恐れます。彼等は、この世のことに携(たずさ)わらないことを、何よりも恐ろしいことであると思います。
しかしながら、真にキリスト教を信じて、この世を全く捨て去った者はどこにいますか。中世時代の院僧(モンク)でさえ、全く世と関係を断つには至らなかったではありませんか。
エペソ書のような超現世的な書を書いたパウロでさえ、常にこの世と接触していたではありませんか。
キリスト教の精神そのものが隠遁的ではありません。私共は、キリスト教が隠遁者を作りはしないかという無益な心配は、全くこれをなげうって、全心全力を挙げて、キリスト教を信じるべきであると思います。
問 しかし、今の世において、パン問題は重要問題であるではありませんか。今の世において、この問題を等閑(なおざり)にすることは出来ないではありませんか。
答 聖書には何と書いてありますか。「
汝等生命のために何を食ひ何を飲み又身体のために何を衣(き)んとて憂慮(うれ)ふ勿れ」と書いてあるではありませんか。
これによって見れば、パン問題は、キリスト信者にとっては、重要問題であってはならないはずではありませんか。キリスト信者は、その霊魂だけでなく、またその肉体をも神にお任せするべき者です。
ゆえに彼は、パン問題に彼の思考の大部分を奪われてはなりません。そうはいっても、彼はもちろん、遊飲座食して、他人に自己を養わせようとはしません。彼は常人のように、商売にも農業にも工業にも従事します。
外から見た彼は、世の人と少しも変わりません。しかしながら、キリスト信者が農、商、工に従事するのは、世の人とは全く異なる精神によります。彼は、いわゆる渡世の業としては、これに従事しません。彼は神の命として、これに従事します。
彼は彼の職業によって、自己と自己の家族を養おうとはしません。その事は、彼はこれを神にお任せします。彼はただ神の命に従い、神の事業として彼の職業に従事します。
つまるところ、教会問題と言い、パン問題と言い、これらは等しく肉の問題であって、この世の問題です。そしてそのような問題に常に頭脳(あたま)を悩まされるのは、私達が懐く信仰が、甚だ不健全である証拠です。
私達がもし真正のキリスト教を信じたならば、私達は既に、そのような問題で自己を苦しめないはずです。
そして、キリスト教を信じて既に五年または六年経って、今なおそのような問題に悩まされるのは、私達に伝えられたキリスト教が、本当のキリスト教でない証拠です。
そして私達が今日でもなお「
我等の霊魂を塵につかしむる」理由は、私達が米国人のキリスト教を受けたからです。
肉体のことについて最も深く心配する者は、米国人です。彼等は、夏は暑さを避けずにはいられません。衣食問題を重要視しないようなことは、彼等にとっては大罪悪です。
彼等が教会問題を宗教問題中の第一位に置くのも、全くこのためです。彼等は、目に見えない超現世的な宗教を信じ得ないからです。パン問題が彼等の最大の注意を引くのは、あえて怪しむに足りません。
不幸にして物質的な米国人から始めてキリスト教を聞いた私達は、今やその束縛の絆から脱しようと思っても脱することが出来ません。
しかしながら私達は、全ての力を尽して、一日も早くこの有害な感化から脱却しなければなりません。パン問題などについては、旧来の我国の武士道の方が、米国宣教師によって伝えられたキリスト教よりはるかに勝っています。
私は常に思います。日本国には二大敵国があると。その第一はロシアです。彼はその併呑(へいどん)主義によって、外から私達を圧服しようとしました。ゆえに私達は、剣を抜いて彼を追い払いました。
その第二は米国です。かれは、その物質主義によって、内から私達を腐らせようとします。ゆえに私達は信仰を以て、この第二の敵を追い払わなければなりません。
そう言っても、もちろん私は、米国人は個人として悉く私達の敵であると言うのではありません。同じように、ロシア人の中にも、個人としては尊敬親愛すべき人が多くいます。
しかしながら、併呑主義がロシアの主義傾向であるように、物質主義は米国の主義傾向です。私達は、この有害な二つの主義を代表するロシアと米国とを排斥すべきです。
これは、誰君、誰さんの問題ではありません。米国とロシアの両国に充溢(じゅういつ)する主義・精神の問題です。
ゆえに私達が教会問題を決するに当たっても、また私達の身の独立を計るについても、私達は米国人にならってはなりません。私達は、キリスト教をその真髄において解し、ここに超現世的な信仰を、私達の中に作らなければなりません。 サヨナラ
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エホバの熱心
(ある友人と夜話に語ったこと)
聖書に「
エホバの熱心之を成すべし」(イザヤ書9章7節、同37章32節)という言葉がある。エホバの熱心とは、そもそもどういうことであろうか。
熱心とは
熱情である。英語ではパッションである。即ち物の前後を省みず情に駆られることである。冷算しないことである。「恋愛は盲目なり」という言葉などは、熱心が何であるかをよく示すものである。
そして私達が驚くことには、エホバにそのような心があるとのことである。神は全知全能と言って、知に満ちた者ではないか。ところが彼が事を為すのに、熱情、即ちパッションを以て為されるとは、納得し難いことではないか。
神にはもちろん痴情はない。彼にはまた、老婆心のようなものはない。しかし、彼に熱情があるとは、決して信じ難いことではない。いや深く考えてみれば、熱情があるからこそ、エホバの神は真の神であるのである。
神に先見があるのはもちろんである。彼はよく、原因結果の理を弁えておられる。ゆえに彼がもし冷知の者であられるならば、彼は多くの苦痛を冒して人類を救おうとはされない。
また彼は、人が何であるかをよく知っておられる。恩を忘れやすく、背きやすく、呟きやすく、変わりやすい者であることを知っておられる。
人を救うことは難しいことであるだけでなく、また嫌なことである。
前後利害を考えて見ては、神であるか人であるかを問わず、人類の救済事業にはとうてい従事することは出来ない。
しかしながら、愛は盲目である。人の場合においてだけでなく、神の場合においてもそうである。愛に励まされて、私達は物の前後を忘れてしまう。苦痛も忘れ、失敗も忘れ、恥辱も忘れ、ただ愛そう、憐れもう、恵もうという一筋に、万事を放棄して、私達が愛する者を益しようとする。
その時に私達は、哲理に訴えて事を為そうとはしない。私達は情に強いられて、利害を省みず、得失を省みず、ただ一心に私達の愛を断行しようとする。
そして聖書の示すところによれば、エホバの神にもまた、この熱心があるということである。彼は人類をあまりにも切に愛するので、彼等を救おうとされるに当たっては、その代価の高さには少しも意を注がれない。
彼は親がその子を危険の中から救おうとする時の熱心を以て、自己の地位が高いことを忘れ、また自己が救おうとする人から受けるべき恥辱に思い及ばず、ただ愛する者を助けようとする一念で、大いなる救いを施される。
世に冷脳冷知の哲学者ほど賎しむべき者はいない。彼は万事を弁えているので、常に安全の道を取って、危険に臨まない。彼は熱心を賎しみ、極端を嘲る。彼は独り高所に座して、人類が罪悪に沈むのを憐れむ。しかし自ら低い所に下って、彼等を助けようとはしない。ただ冷然と批評して彼等の愚を笑う。
しかし、エホバの神は哲学者ではない。彼は時には熱心に駆られる者である。彼は全知であると同時に、全愛である。そして愛は知よりも大きくて力強いので、エホバにあっても、愛はしばしば知に勝つことがある。
そして神が最も貴く、最も神々(こうごう)しく現れる時は、彼の愛が彼の知を越える時である。神の小なる者が人であるように、人の大なる者が神である。神においても人におけるように、情は知恵以上の勢力である。この奥義をよく伝えたものが、ルカ伝15章にあるキリストの放蕩息子の譬(たとえ)である。
完