「晩秋の感」他
明治39年11月10日
1.晩秋の感
冬について思わず、春について思う。夜について思わず、朝について思う。死について思わず、生について思う。墓について思わず、復活について思う。私達が崇(あが)める神は、死んだ者の神ではない。活きている者の神である。光の子である私達は、死と闇とに堪えられない。
2.無私の祈祷
自己に恩恵が下るようにと祈ってはならない。神の栄光が現れることを祈るべきである。自己を祈祷の題目とすべきではない。神のために神に祈れ。御心を成らせたまえ、御国を来らせたまえと。そうすれば、無私の心に臨む神から出て、人の全ての思いを越える平安を受けるであろう。
3.必要物の供給
私達に必要なものは必ず与えられるであろう。しかしそれは前もって与えられず、必要な時に与えられるであろう。ゆえに私達は、要のないものを要のない時に祈り求めて、主である私達の神を試みてはならない(マタイ伝4章7節)。
「
神は最(い)と近き助けなり」(詩篇46篇1節)。私達は、一呼(いっこ)してその援助に与ることが出来るであろう。父の物を自分の手元に蓄えるのでなければ不安を懐くというようなことは、子たる者の道ではない。
4.損失の利益
肉において足りるのは、霊において満ちる道ではない。霊の健全は、肉の減殺(げんさい)によって維持される。肉において飽き足りるなら、霊において死ぬであろう。ゆえに欲望は、充分に達せられないのが良い。
天国の門は、地上の失望によって開かれる。肉において失うだけ、それだけ霊において得るところがある。
私達はもちろん、強いて損失を求めるべきではない。しかし、常に損失が利益であることを知って、足らないことを感謝し、満足すべきである(テモテ前書6章6節)。
5.四大使徒の信仰
ヤコブの信仰は律法の信仰であった。ペテロの信仰は、訓練の信仰であった。パウロの信仰は、信仰の信仰であった。そしてヨハネの信仰は、愛の信仰であった。四大使徒は、キリスト教の四大主義を代表した。そして私は、特に使徒ヨハネの主義を選ぶ者である。
6.新教会の顕出
教会の上に教会がある。ローマ天主教会の上に、ルター、カルビン、ウェスレー等の教派教会がある。教派教会の上に、無教会がなければならない。
無教会は、愛の法則の他に何らの法則をも認めない教会である。そしてそのような教会が、最善最美の教会であることは、言うまでもなく明らかである。
God is marching on. (神は進みつつあり)。私達はこの新世紀と新興国とにおいて、詩人と預言者とが理想した新教会の顕出を努めなければならない。
7.我が義イエス・キリスト
キリストは、私の全てである。私の義である。命である。救いである。私の洗礼である。聖餐である。教会である。「
夫れ我等の逾越(すぎこし)、即ちキリストは既に屠られ給へり」(コリント前書5章7節)。
私はキリスト以外に、何の儀式をも制度をも求めない。霊によって始まった私は、肉によって全うされようとはしない。
私が今もし何らかの律法または教則または儀文によって全うされようとするなら、私はキリストの属(もの)ではないのである。私は、神の恩恵(めぐみ)を空しくしない。ゆえに全ての律法に死んで、私の義であるイエス・キリストに在って生きようと思う。
8.進歩の子であれ
進歩の子であれ。保守の子になるな。アブラハムがカルデヤの地を去ったように、腐敗の巣窟は、断然これを去れ。預言者が時の制度を排斥したように、陳腐な制度は、これを排斥することに躊躇(ちゅうちょ)するな。
キリストが祭司、学者、パリサイの人以上の義を求められたように、法王、監督、宣教師以上の義を求めよ。パウロがペテロを面と向かって詰責したように、自由の福音を維持するためには、高僧・碩学(せきがく)にも従わない覚悟を懐け。
進歩の子であれ。そしてアブラハム、預言者、キリスト、パウロ等と階級を同じくする者となれ。
9.永久の小児
私は固まろうとはせず、伸びようとする。私は永久の小児であろうと思う。私は祭司になろうとはしない。預言者であろうとする。神学者になろうとはしない。詩人になろうとする。政治家になろうとはしない。革命家になろうとする。私は永久に自由の小児として、神の宇宙に存在しようと思う。
10.文士と神学者
道はこれを神学者に学んでもよい。しかしその伝播の方法は、これを文士に学ぶべきである。ブラウニング、カーライル、ホイットマン等に学ぶべきである。彼等は堅い心と、一本の筆の他には頼るところがなかった。それでも真理を広く世界に伝えて、万人の心に歓喜を供した。
近世における、昔時の預言者の継承者は、教会の勢力を後ろ盾に取って、講壇から叫ぶ説教者ではない。神と自己以外には頼むところのない独立の文士である。
11.宣教師の大軍
最近の報告書によれば、現今我国に滞在して伝道する外国人宣教師は、その総数男女を合せて千百三十三人であるという。大軍と称するべきである。
それだから、夏期になって、彼等が清涼な山上に、下界の暑気を避けるころは、日光や軽井沢に宣教師が現れるのはもっともである。
ところが、私がこの道を信じるようになって三十年になるが、交際を結んだ宣教師は二三人に過ぎない。また、広くこの地に伝道して、彼等によって道を信じるようになった者に遭遇することは、甚だ稀である。彼等は、私が知らない所で大きな事業を為しつつあるのかも知れない。
しかし、彼等によらずに福音が急速に進むのを見て、私は彼等がこのような大軍をなしてこの地に留まる実際的理由を知るのに苦しむ。
12.大詩人に聴け
説教集と宗教書類とだけを読んでいてはいけない。時には大詩人の詩集をひもといて、大いに自由と独立の精神を養うべきである。
宗教は、人を因循、姑息、怯懦(きょうだ
:意気地がなく、なまける)にしやすい。旧習に泥(なず)ませ、古例に盲従させやすい。
神が時々大詩人を世に送られるのは、古いエジプトの束縛を慕う奴隷の民を覚醒するためである。米国宣教師に聴くな。米国詩人ワルト・ホイットマン(
http://en.wikipedia.org/wiki/Walt_Whitman )(see also
http://en.wikipedia.org/wiki/Leaves_of_Grass )に耳を傾けよ。
彼に倣(なら)って、
Nature without check, with original energy
元始の精力を以て、碍(さまた)げらるゝことなく天真有(あり)のまま
を語れ。彼はまた言った。
The immortal poets of Asia and Europe have done their work
and passed to other spheres,
A work remains, the work of surpassing all they have done.
亜細亜と欧羅巴の不朽の詩人は既に其業を終て他界に去れり、
今や一事業の存するあり、彼等の為せしに優(ま)さる事業を為すこと是れなり。
そうです。アジアと言わず、ヨーロッパと言わず、またアメリカと言うべきである。詩人と言わず、また宗教家と言うべきである。
私達は、詩人の教訓に従って、スポルジオン(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3 )、ビーチャー(
http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Beecher )、ムーデー(
http://en.wikipedia.org/wiki/Dwight_Lyman_Moody )等が出来なかった事業を、この地において為すべきである。
13.恩恵の代価
神は無代価で、恩恵を人に下される。しかし人は、代価を払わずには、その恩恵を自己の所有にすることは出来ない。多く払う者は多くの恩恵を得、少なく払う者は少ない恩恵を得る。
富者はその所有の万分の一を奉げて、恩恵の万分の一を得る。貧婦はその全ての所有をなげうって、恩恵の全てを得た(ルカ伝21章1、2節)。これは、神が吝嗇(りんしょく)だからではない。宇宙の法則だからである。
福音を恥とする者は、終生福音を耳にしても、福音の恩恵に与ることは出来ない。福音のために命を捨てる者であって始めて、福音の恩恵を全て享有することが出来るであろう。
「
神はまことに慢(あなど)るべき者に非ず」(ガラテヤ書6章7節)。多く払う者は、多く得、少なく払う者は少なく得る。私達は神を恨むべきではない。己を責めるべきである。己が得ようと思わなかったので得ることが出来なかったことを認めるべきである。
完