「楽しき生涯」他
明治41年3月10日
1.楽しき生涯
現世が既に楽しい。来世はさらに楽しくなるであろう。私達は現世を楽しむ。また来世を楽しもうとする。幸福なのはキリストにあって生きる私達である。
2.現世が楽しいわけ
現世そのものは楽しくない。来世の希望があるので楽しい。それはあたかも、富の獲得の希望があれば、貧しさが苦しくないのと同様である。現世は修羅の街衢(ちまた)である。しかし、自我を平和の来世に移せば、現世の苦闘は、反って歓楽となるに至る。
私達は、希望によって救われるのである。即ち来世の希望の快感によって、現世の苦痛から免れることが出来るのである。(ロマ書8章24節)。
3.来世と向上
来世の希望は、迷信ではない。また妄想ではない。来世の希望は、無窮発達の希望である。不滅であるべき人類が懐くべき正当の希望である。この希望が無ければ、人は禽獣と何も異ならない。
「
人の魂は上に昇り、獣の魂は地に降る」(伝道の書3章21節)。人に永久の向上性があるので、彼は永生を望んで止まないのである。彼に来世なしと説くのは、彼に自殺を勧めるのに等しい。来世の希望を懐いてのみ、人は人らしい者と成ることが出来るのである。
4.来世を説かない宗教家
今や来世を説かない宗教家は多い。彼等は言う、天国は清められた現世に他ならないと。ところが、事実は彼等の言葉に反し、現世の汚濁は日々ますますひどくなる。
来世の希望を供せずには、現世を清めることは出来ない。宗教家が来世を説かないなら、彼等は何によって現世を清めようとするのか。来世の確信のない宗教家は、塩辛さを失った塩である。「
後は用なし。外に棄てられて人に践(ふ)まれん而巳(のみ)」(マタイ伝5章13節)。
5.私が信じる福音
キリストは私が犯した罪を全て贖って下さった。キリストは、私が為すべき善を私に代って、全てして下さった。キリストは私のために永生を備え、私を聖父の国に迎えて下さる。私はただ、キリストを信じれば足りると。
私が信じる福音はこれである。それが信じ難いのは、あまりに善すぎるからである。しかし、神の福音は、これ以下のものであってはならない。「
誠にエホバを畏るゝ者にエホバの賜ふ其矜恤(あわれみ)は大にして、天の地よりも高きが如し」(詩篇103篇11節)。
6.私の希願
「
我れ若し全世界を獲るとも、我生命を失はば、何の益あらん乎」(マタイ伝16章26節)。私がもし世のいわゆる成功者となり、学に秀で、産を作り、位階に誇っても、私の霊魂を失うなら、何の益があろうか。
「
兎(と)にも角にも死たる者の甦(よみがえり)に与からんことを」(ピリピ書3章11節)とは、パウロの希願であった。
私もまた、この世において何を得なくても、また何を失っても、とにもかくにも来らんとするキリストの国に入ることを得て、その一員となることを願う。
7.宗教と教会
福音は自由である。ゆえに教会を作らない。福音が宗教と化して、始めて教会が現れる。教会は、宗教が産んだものである。ゆえに宗教が廃れて、福音が再び世に臨む時には、教会もまた廃れる。教会の衰微は、福音復興の兆しである。喜ばしいことだ。
8.神意と人意
人は止まろうとし、神は動こうとされる。人は団結しようとし、神は溶解しようとされる。人は制定しようとし、神は産出しようとされる。
神が自由の福音を与えて下さると、人はこれを化して制度の宗教となし、神が愛の兄弟を生んで下さると、人はこれを収容して規則の教会を作る。
人が為すことは、常に神が為されることに反する。かつてバベルの塔を築いて、神の怒りを招いた人は、今なお条規の教会を設けて、同じく御心に戻りつつある。慎まないでよかろうか。
9.墓地であるこの地
地は人類の住家であると言う。それは間違いである。地は人類の墓地である。彼の住家は他に在る。「
手にて造らざる窮りなく存(たも)つ所の屋なり」(コリント後書5章1節)。
地の花は、彼の墓を飾るのに良い。その山は、彼の遺骸を託するに適している。しかし、地そのものは、彼の住所とするに足りない。
地について争う者は誰か。政治は墓地の整理ではないか。戦争は墓地の争奪ではないか
(現代史における一例:http://en.wikipedia.org/wiki/Argentine_Military_Cemetery )。永久の住所を有する私達は喜んで、地はこれを他人に譲るべきである。
10.不滅の獲得
私は、人の霊魂は誰の霊魂も不滅であるかどうかを知らない。しかし、キリストに在る霊魂は、必ず不滅であることを知る。霊魂不滅は、学理的に説明できない。しかし、信仰的に実験することは出来るであろう。私達は苦しんで、闘って、自己に死んで、不滅を自分のものとすべきである。
11.不朽の我等
私達は、既に永生を有している。ゆえに歳と共に老いない。「
我等の外なる人は壊るとも、内なる人は日々に新たなり」(コリント後書4章16節)。私達が死んでも死なないのは、このためである。私達はキリストに在って、既に死から生に移されたからである。
春は来て、春は去る。しかし私達の霊は、永久の春にある。たとえ天は去り地は燃え尽きようとも、キリストに在る私達は、不朽の神と共に存するであろう。
12.感謝の回想
私はかつて、エレミヤと共に歎いて言った。「
嗚呼(ああ)我は禍ひなる哉、人皆な我と争ひ、我を攻む。皆な我を詛ふなり」(エレミヤ記15章10節)と。
しかし今に至って私は感謝して言う。「嗚呼、我は福ひなる哉。人皆な我と争ひ、我を攻め、我を詛ひたれば、我は神に結ばれて其救済に与かるを得たり」と。
人に捨てられることは、神に拾われることであった。人に憎まれることは、神に愛せられることであった。人と絶たれることは、神に結ばれることであった。今に至って思う。私の生涯に有ったことで、最も幸福であったことは、世に侮られ、嫌われ、辱しめられ、退けられたことであったことを。
完