「自然主義」他
明治41年4月10日
1.自然主義
自然の自然は自然である。人の自然は不自然である。自然の自然を描くのは美である。人の自然を写すのは醜である。私は自然の自然主義を唱える。人の自然主義を唱えない。人は神に背いて、その自然性を失ったからである。
2.進歩と苦痛
世は永久に進歩するであろう。しかし、永久に苦痛の世であろう。人は永久に争うであろう。死は永久に存するであろう。幸福はこの世から望むべきではない。たとえ進歩はその極に達するとも。
3.御国の到来
世は進みつつあるか、私は知らない。退きつつあるか、私は知らない。平和は来りつつあるか、私は知らない。戦争は起りつつあるか、私は知らない。
私はただ一事を知っている。神の御国が日々刻々近づきつつあることを。そしてそれは、政治家、軍人、宗教家等、人の運動によって来るものではないことを。 マタイ伝24章6節参考。
4.不用問答
福音は世を改めるであろう。あるいは世を改めないであろう。しかし、これは福音の真価を定めようとするに当って、全く不用問題である。福音の真価は、福音そのものに存する。
福音は平和を来らすであろう。あるいは戦争を来らすであろう。しかし福音は、霊魂を活かす能力(ちから)であることを失わない。私は福音が世に及ぼす効果を述べ立てて、その真価を弁じようとはしない。
5.福音の勢力
福音は、政治ではない。しかし、国家を潔(きよ)める。福音は美術ではない。しかし、美感を喚起する。福音は哲学ではない。しかし、思惟を刺激する。福音は、産業ではない。しかし、富を増進する。
福音は、この世の事ではない。しかし、人をその中心において活かすので、活動の全ての方面においてこの世を啓発する。この世以外の福音こそ、実にこの世を救う唯一の勢力である。
7.無抵抗主義の威力
私達は、無抵抗主義を採る。しかし神は無抵抗主義をお採りにならない。彼は私達に代って、抵抗される。万事を神にお任せする私達に逆らう者は禍である。
なぜなら神は、私達に代って、「
彼等を砕き、彼等を恤(めぐ)まず、憐まずして滅し給ふべければ也」(エレミヤ記13章14節)。
8.近世の聖書研究
近世の聖書研究は、主として外からする研究である。言語学と考古学と比較宗教とによる研究である。ゆえに聖書の真義に達するのは難しい。
聖書は歴史ではない。美文ではない。信仰の書である。ゆえに信仰によらずにその真意を探ることは出来ない。材料は積んで山を成し、観察は広く海を覆うとも、わずかに聖書の外装を窺うに過ぎない。労多くして功少なしとは、近世の聖書研究を言うのであろう。
9.公平な批評
人に神を評させるな。神に人を評させよ。哲学によって聖書を評するな。聖書によって哲学を評すべきである。神は人よりも高い。聖書は哲学よりも深い。聖書に拠り、神の立場に立って、私達は最も公平に、人と万物とを評することが出来るのである。
10.交友と信仰
私は、不信者であるかも知れない。なぜなら私は、今のいわゆるキリスト信者なる者と交わることが、甚だ稀だからである。私の交友は、むしろ不信者の中に在る。偏理論者の中に在る。私は時には思う。そのような社交的境遇に在る私は、神に呪われた者ではないかと。
しかし、何で恐れようか。イエスは祭司、学者、パリサイの人等と交わられずに、反って税吏、罪人等を友とされた。私の交友は、イエスのそれに類似する。私は、「キリスト信者」ではないであろう。しかし、イエスの友でないとは、未だ断定することが出来ないであろう。
11.宇宙の無用物
第一に貴いものは、信仰である。第二に貴いものは知識である。第三に貴いものは労働である。もし信仰がなければ、知識がなければならない。もし知識がなければ、労働がなければならない。
信仰がなく、知識がなく、労働がなければ、人は宇宙の無用物である。そして世のいわゆる宗教家なる者は、多くはこの類ではないか。
彼等に労働はない。彼等は他人に自己を養わせる。彼等に知識はない。彼等は弁舌を弄するだけである。彼等に信仰はない。彼等は教権を揮うだけである。主は彼等について言われるであろう。「
之を切り去れ。何ぞ徒らに地を塞ぐや」(ルカ伝13章7節)と。
12.武士道と宣教師
聞く、真の武士道は、敵に勝つ道ではない、人に対して自己を持する道であると。清廉、潔白、寛忍、宥恕、勝つにしても立派に勝ち、負けるにしても立派に負ける道であると言う。
もしそうであるなら、武士道は、外国宣教師によって伝えられた、我国今日のキリスト教より遥かに優れている。
宣教師的キリスト教は、何よりも先ず成功を欲望する。多くの信徒を作ろうとし、大きな会堂を建てようとし、社会に勢力を植えようとする。聖(きよ)く失敗する祝福などは、全然解し得ないところである。
私はナザレのイエスの弟子として、また日本武士として、外国宣教師と彼が伝える宗教とに反対する者である。
13.父の一周忌に際して
父の一周忌がめぐって来た。私は涙なしにいられない。
彼はどこにいるのだろうか。彼は消滅したのか。私はそう信じることは出来ない。彼は彼の墓に眠っているのか。私はそう信じることは出来ない。それでは彼は今、どこにいるのか。
彼は、私と共にいる。私の側にいる。私の内にいる。私は五感によって彼を感じられないだけである。私に第六感、または第七感が与えられる時、私は明かに再び彼を感じることが出来るであろう。
彼は今なお私と共に在り、私を励まし、私を慰め、私と苦楽を分かちつつある。想い望む。復活の曙、この朽ちるものが朽ちることのないものを着、死ぬものが死なないものを着るその時、私達は顔と顔を合せて、人生の苦闘と勝利とを語るであろう。
「
我れ天より声ありて、我に言ふを聞けり。曰く、今より後、主に在りて死ぬる人は福(さいわ)いなりと」(黙示録14章13節)。
14.今より後
◎ 国を救おうとする。国を救おうとすると。ところが国は、終に救われそうにない。ゆえに私は、今より後、国の救いを思うまいと思う。そしてキリストの福音だけを説こうと思う。そうすれば国は自ずと救われて、私達は神に感謝するようになるであろう。
◎ 私は、政治家が執る我国の方針が、正しいのか間違っているのか知らない。私はただ一事を知る。即ち国民の誠実が日々ますます失せつつあることを。ゆえに私は今から後、国是について論じることを止めて、ただひたすら、民の誠実を増すことだけに努めようと思う。
◎ 新説また新説、しかも一つとして私を満足させるに足りない。ただ古い福音だけが、よく私を満足させて余りがある。「
イエス・キリストの血すべての罪より我を救ふ」と。
これよりも深い真理に、私は未だかつて接したことはない。ゆえに私は、今から後、新説に注意を奪われることがないようにして、一意専心、私の古い古い福音を唱えようと思う。
15.人を救う力
人を救おうと思って人を救うことは出来ない。真理を明かにすれば、人は自ずから救われるのである。真理以外には、人を救う力はない。救世者の模範はカントである。パスカルである。ブラウニングである。ウェスレーではない。ムーデーではない。ブース大将ではない。
私達は、前者に倣って深く、永く、普(あまね)く世を救う道を講じるべきである。
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常識と信仰
明治41年4月10日
私は常識を貴ぶ。しかし、信仰に代わる常識を貴ばない。信仰は神の知恵である。常識は人の知恵である。二者の価値は、比べようがない。
信仰はもちろん迷信に陥り易い。しかし、腐っても鯛の骨、信仰はどこまでも信仰である。信仰は、迷っても誠実である。ゆえにひとたび覚めれば、元の神の知恵である。神の宝位(みくら)に近づき、これを動かし得る能力である。
常識の腐ったものは世才である。そして世才は、死んだ犬と同然、何の用もないものである。世才は不実である。彼は真理を嘲弄する。彼に覚醒の機会は容易に来ない。彼はいつまでも自己を知者だと思い、また自己を理に適っているとする。恐るべきは、迷信ではなくて世才である。
完