「不義な番頭のたとえ」他
明治41年5月10日
1.不義な番頭のたとえ
ルカ伝第16章1〜11節、3月17日天満教会において
このたとえで先ず注意すべきは、キリスト教の財産観です。即ち、個人の富は所有であって所有ではない。これを自分の金庫に収め、自分の帳簿に記録しても、実は一時の預かりものに過ぎないということです。
たとえば自分が生んだ子のようなものです。自分のものであるけれども、実は神からの供託物なのです。
この意味において考えると、私達は皆、主人の財産を司る番頭であると言うことが出来ます。そして、このたとえにある不義の番頭の行為は、巧みに主人の富を利用して、自分のために良い友を作ったのです。
キリストがこのたとえを語られた御心も、つまりこの預かりものの利用という点にあります。不義にならえと言うのではありません。その巧みを学べと教えられたのです。
富は預かりもので、また一時のものです。たとえ百万の富を蓄えた人でも、ひとたび死んでこの世を去る刹那(せつな)には、富はただそのままに捨てて逝(ゆ)くだけです。また、何もすることは出来ません。
さらにまた、たとえこれを持って逝ったところで、この世の富はかの世の富ではありません。少しも通用しないのです。そしてこの死、即ちこの世から番頭の役を解雇される日限が明日かも知れないはかなさであることを思う時には、富はいよいよ一時の預かりものと知ることが出来ます。
しかし、キリスト教の財産観は、これだけではありません。ただ一時のものと軽しめただけで終わりません。
却って、このはかない小さなものを元として、もっと大きな真の宝を購(あがな)えと教えます。
他の例を挙げて言えば、ちょうど他国へ旅行しようとする前の準備のようなものです。この世限りの富を換算して、かの世の通貨にしておけと教えるのです。
またこれを、商業上の放資(ほうし)にもたとえることが出来ます。機を見ては、惜しむことなくこの小資本を放資して、さらに後の大きな利得を準備しておけと教えるのです。
即ち、財産は小事ですが、これを善用すれば、大きな真の富を得ることが出来る道具です。
不義な番頭は、巧みに主人からの預かりものを利用して、多くの友を作りました。私達もこれにならい、友を作っておかなければなりません。
第9節に言っています。「
我れ汝等に告げん。不義の財を以て己が友を得よ。之れ乏しからん時、彼等汝等を永久の天幕に迎えんが為なり」と。
ここに「彼等」と言われている人は誰でしょうか。一人の孤児でもよろしい。貧婦でもよろしい。ただ私達が死んで永久の天幕に入る時に、これ等の友が一人でも迎え出てくれて、相互に喜ぶことが出来るようにしたいのです。先ず今の世のうちに、その友を作っておかなければなりません。
2.富者と貧者
ルカ伝第16章19〜31節、3月22日今井氏宅において
先ず目を閉じて、心にこの数節の光景を描いてみましょう。紫の衣や柔かい麻布を着て誇っている富者と、肌はただれて腫物に悩み、犬が来て舐めるという貧者、美味佳肴(びみかこう)に奢(おご)り楽しむ富者と、その食卓から落ちる屑で腹を満たそうとする貧者、その対照が実に著しいのです。
そしてこの富者の氏名をあげないで、却(かえ)って貧者ラザロの名をあげられたキリストの御態度こそ、先ず注意すべき一事です。さらに、この両者の死にざまを説かれるに至って、言葉は簡略で意味は深長、文章の妙を極めています。
いわく(22節)、「
貧者は死して其霊を直(ただち)にアブラハムの懐へ送られ、富者は死して其の遺骸の前に壮麗なる葬儀の式を供せられたり」と。ただこの一連句に、汲みつくせない味があると言うべきです。
次に活画は一転します。ただ一枚の黒幕の前後ですが、この世と来世とは、よくもよくも全てのものの位置が転倒しています。ここでは貧者は慰められ、富者は苦しみ、その間には大きな淵があって、渡ることさえ出来ないと言うのです。
現世と来世との別は、著しく描かれていて、光景の急転は真に人の心を驚かせます。そして来世は、普通に考えられているように、無差別平等の世界ではありません。
ただ、その差別され分けられる標準が異なるのです。即ち人の目から見る階級は、富と位とにより、神の目によって分かたれる階級は、純道徳的価値によるのです。
それで、この世の偉大な者、富める者、権ある者が、必ずしも真に偉大な者、富める者、権ある者でなくなるのです。
真にこれを定めるものは来世であって、富者も陰府の苦しみには、ただ一滴の水にさえ渇き、犬に侮られたラザロは、却って安泰の懐に憩っています。主人は主人ではなく、奴僕は奴僕ではない。これは心すべき事どもです。
さらに二つの注意すべきことがあります。それは、25節および29節にあるアブラハムの言葉です。
第一の言葉は、「
子よ、汝は生きたりし時に汝の福(さいわい)を受け、またラザロは苦みを受けしを憶(おも)へ」です。日本訳にある「
其の苦」というのは誤訳です。除いた方が良い。
即ちこの言葉の意味は、富者は彼自身が福と信じている福(神から御覧になっての福ではなく)をほしいままにし、ラザロは、彼自身は欲しなかったが神から与えられた苦しみの生涯を送ったという意味です。
「其の」という一語の有無によって、大きな違いが起るのです。即ち聖書の説は、富者は必ず悪で来世に苦しみ、貧者は必ず善であって慰められるとは断定しません。
富と貧とはそのもの自身が幸不幸を定めるものではないのであって、ただ現世において、自分が欲する福だけを貪り尽くした者と、自分が欲しない不遇の一生でも従順に送り通した者とでは、来世において違いが生じると言うのです。
第二の言葉は、「
彼等にはモーセと預言者あれば、之れに聴くべし。……若しモーセと預言者とに聴かずば、縦(たと)ひ死より甦るものありとも、其の勧めを受けざるべし」というものです。
これまた、私達が最も注意すべきことです。往々にして人は言います。奇跡によって証明して下さるなら信じましょうと。しかし、聖書によって信じない者が、何かの方法によったとしても信じるようになるでしょうか。
かつまた聖書によって信じないほどの者には、奇跡を与えても、これを奇跡として受けられないのです。
今仮に、死んだラザロを甦らせて、富者の家に送ったとしましょう。五人の兄弟達は、これをあれこれと解釈し去って、真に神が遣わされた甦りの死者として受ける者は、一人としていないでしょう。
そしてこの事は、この富者の兄弟達だけではありません。世上日常のことであって、私達もまた陥り易い謬想です。
3.「都会か田舎か」他
(1) 都会か田舎か
私は都会に勢力を失ったと言って、私を嘲る者がいる。しかし、これは無益な批評である。私は都会に勢力を得ようとはしない。また地方にこれを得ようとはしない。私はただ私の救主であるイエス・キリストに仕えようとする。
勢力を云々する者などは、私を批評する資格を有(も)たない者である。先ず勢力の野心から脱するのでなければ、キリストの事を語ることは出来ない。
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都会は主として学生の巣窟である。変り易い、背き易い学生の巣窟である。ゆえにここに勢力を失ったとしても、何の損も害もない。日本国民の最も良い部分は、都会にはいない。もし日本国を取ろうとするなら、都会を去って、田舎に行くべきである。
小さな野心家は、都会に留まって、その砂の上に紙の城を築くべきである。しかしキリストのために、磐(いわ)の上に石の城を築こうとする者は、都会を去って、田舎で働くべきである。
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何事も、鋤(すき)と共でなければ、永久に栄えない。自由もそうである。福音もそうである。鋤と共に人の心に彫り込まれて、福音は国の生命となるのである。
ゆえに最も注目すべきは、都会における学生伝道ではない。田舎における百姓伝道である。そして私は、前者にまさって後者を選ぶ者である。
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(2) 四十の数
地の数である四に、不定数である十を乗じた四十の数は、聖書においては、
地上における艱難を示す数として用いられている。
モーセはホレブ山に登り、
四十日四十夜パンを食わず水を飲まず、即ち断食してエホバの命を待ったと言い(申命記9章9節)、預言者エリヤは
四十日四十夜食することなく、同じホレブの山に至ったと言い(列王記略19章8節)、
ノアの洪水は
四十日間続いたと言い(創世記7章17節)、イスラエルの民は
四十年間荒野に彷徨ったと言い(民数紀略14章33節)、エジプトは
四十年間空漠の地として存すべしと言い(エゼキエル書29章12節)、
預言者エゼキエルは、
四十日間ユダの罪を負って臥(ふ)すべしと言い(同4章6節)、悪人は刑罰として、鞭
四十を受くべしと言い(申命記25章3節)、産婦は産後
四十日を経なければ聖所に入ってはならないと言う(レビ記12章14節)。
イエスは
四十日四十夜荒野に居て断食したと言う(マタイ伝4章2節)のも、この例にならってである。即ち困難または苦労と言えば、四十と言ったのであって、必ずしも四十の正数を言ったのではない。
ゆえにイエスが四十日間食を断たれたと記されているのを見て、直ちにその事実を生理学的に説明しようと焦る必要はない。前にも述べた通り、モーセもエリヤも同じく四十日間食を断ったということである。四十は困難を示す数である。ゆえにイエスは四十日間断食されたと言ったのである。
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(3) 生計難と聖書の慰藉
◎ 我れ昔し年若く今老ひたり。然れど義者の捨られ、其裔(すえ)の糧を乞ひ歩くを見しことなし(詩篇37編25節)。
◎ 汝等の年老ゆるまで、我は渝(かわ)らず、白髪となるまで我れ汝を負はん。我れ造りたれば、抬(もた)ぐべし。我れ又負ひ且つ救はん(イザヤ書46章4節)。
◎ 千人は汝の左に仆(たお)れ、万人は汝の右に斃(たお)る。然れど其災害(わざわい)は、汝に近(ちかづ)くことなからん(詩篇91篇7節)。
◎ 己の子を惜(おし)まずして我等すべてのために之を付(わた)せる者はなどか彼に併(そえ)てよろづの物を我等に賜はざらん乎(や)(ロマ書8章32節)。
◎ 汝等世を渡るに貪(むさぼ)ることをせず、有る所を以て足れりとすべし。そは我れ汝を去らず、汝を棄てじと言ひ給ひたれば也。然れば我等毅然として曰ふべし。主我を助くる者なれば畏れなし。人我に何をか為さんと(ヘブル書13章5、6節)。
完