「第百号」他
明治41年6月10日
1.第百号
本誌は幸いにもここに、その第百号に達する。私はそのために自己を祝せず、神に感謝する。そして詩人の言葉を借りて言う。
エホバよ、栄光を我等に帰する勿れ。我等に帰する勿れ。汝の矜恤(あわ
れみ)と真実(まこと)の故によりて、ただ聖名にのみ之を帰し給へ。
と。詩篇第115篇1節。
2.恩恵の数々
十年もの長い間、愛の他には他人に何も負うことなく、ただ一回以外には編集を他人の手に委ねたことはなく、広告は三年に一回用いたに過ぎず、寄書を名士に求めず、購読を人に勧めず、そのようにして今日に至った。
それにもかかわらず、友人は広く海の内外にわたって居り、必要なものはことごとく与えられて、私は未だかつて一回も飢餓を感じたことはない。新著は常に机上に横たわり、小児は常に遊具に富んでいる。これを恩恵と称さずに、何と称するか。
私は言う。私はこの世に在って、最も幸福な者であると。十年、この非キリスト教国に在って、
神にのみ依頼してキリストの福音を宣(の)べることが出来て、私は神の実在を疑おうと思っても、疑えない。
3.信仰の道
信仰は、第一に誠実である。第二に信頼である。第三に実行である。そのうちの一つを欠けば、信仰は信仰ではない。人は信仰によって救われると言うのは、そのような信仰によって救われると言うのである。この他には信仰はない。また救いはない。信仰の道は、蒼天に輝く太陽のように明かである。
4.キリストとキリスト教
キリスト教はキリストである。キリストは十字架である。パウロを知り、ペテロを知り、ヨハネを知り、ヤコブを知っても、未だキリストを知ったと言うことは出来ない。奇跡を知り、復活を知り、昇天を知っても、未だキリストを知ったとは言えない。
キリストを知って、キリスト教を知ることが出来るであろう。十字架を知って、そうです、これを担って、キリストを知ることが出来るであろう。キリスト教の実体はキリストである。キリストの精神は十字架である。もしキリストとキリスト教とを知ろうと思うなら、日々十字架を負って、彼に従うべきである。
5.救われる者
イエスのような者は、全て救われるであろう。その人が彼の名を聞いたか聞かなかったかに関わらず、その人が彼の前に生れたか後に生れたかに関わらず、もちろん、教会の内にいるか、その外にいるかに関わらず、全てイエスのような者は救われるであろう。
イエスのようでなければ、キリスト教国の民も、キリスト教会の教師会員も、神学者も聖書学者も、全て永久に滅ぶであろう。
イエスは人類の救主であると同時に、また救われる者の模範である。
この人を見よ、そして救われる者と、救われない者との別を見定めよ。ヨハネ伝19章5節。
6.十字架の教え
悪に抗しないことである。敵の罪を赦すことである。死に至るまで愛することである。これが十字架の教えである。これを信じ、これを行えば生きるであろう。勝利と栄光とは、その結果である。復活と永生とは、その報償である。キリストは、特にこの事を教えるために、世に降られたのである。
人は威力によって勝とうと思うので、知識によって生きようと思うので、神はその子を降し、彼を敵人の手に渡して、勝利と生命との道を示された。ああ、十字架の教えは何と貴いことか!
7.外国伝道
ペテロは剣を抜いてイエスの身を守ろうとした。イエスは彼を戒めて言った。君の剣を鞘に納めなさい。全て剣を取る者は、剣によって亡ぶであろうと。
英国と米国と、ドイツとロシアと、その他全てのいわゆるキリスト教国は、大軍を備え、大艦を浮かべて、キリスト教文明を守ると称している。そしてキリスト教会なるものがあって、軍旗を祝福し、勝利を祈り、
その保護の下にキリストの福音を異郷の民に伝えようとする。
世に奇怪な事は多いが、今のキリスト教国の外国伝道ほど奇怪なものはない。
8.十字架の乱用
十字架を軍旗に織り、その下に進むキリスト教国の軍隊がいる。十字架を信仰箇条に編み、これを旗幟(きし)として、その後に従うキリスト教会の信徒がいる。そして己を棄て、その十字架を負ってキリストに従うクリスチャンはいない。
十字架は、表号としては迎えられ、事実としては退けられる。十字架を護持する者は多い。これを担う者は少ない。今や十字架は、魔よけの一種と化して、その真義は全く忘却されたように見える。
9.私の理想
私の理想はモーセではない。イザヤ、エレミヤ、アモスではない。はたまた、パウロ、ペテロ、ヨハネではない。もちろんクロムウェル、カーライル、ワーズワースではない。尊徳、鷹山、南州ではない。
私の理想は、ナザレ人イエスである。彼のように貧の中に育ち、彼のように働き、彼のように恐れずに所信を唱え、彼のように宗教家と政治家とに憎まれ、
そして彼のように敵の罪を赦しながら死に就く。
そのような生涯を送ることが出来るなら、私は死後にどうなっても良い。地獄に落ちても良い。霊魂が滅びても良い。そのような生涯を送り得たことが最上の幸福であって、最上の栄光である。私はイエスを理想と仰いで、現世も苦しくなければ、来世も恐くない。
10.イエスにおける友人
イエスにおける友人とは、世にいわゆるキリスト信者ではない。彼等の中には党人もいれば獰人(どうじん)もいれば、奸物もいる。イエスにおける友人とは、イエスに似た生涯を送り、また送った者である。
佐倉惣五郎(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%80%89%E6%83%A3%E4%BA%94%E9%83%8E )のような者もそうである。哲学者スペンサー(
http://en.wikipedia.org/wiki/Herbert_Spencer )のような者もそうである。全て義のために闘い、愛のために苦しみ、真理のために努めた者は、イエスにおける友人である。
その人が、イエスの名を知っていたか知らなかったか、あるいは口に唱えたか唱えなかったかとかは、私が問うところではない。全てイエスのような生涯を送った者は、彼に在って私の友人であって、また私の兄弟または姉妹である。マタイ伝12章50節。
11.教会と自由
天の下に、キリスト教会と称すべきものは、ただ三個あるだけであり、三個以上はないと言われている。その三個とは即ち、ローマ天主教会、ロシアギリシャ教会、英国監督教会である。三者は共に系統を聖使徒から引くものなので正教会であると。
あるいはそうかも知れない。そうであれば、私などは聖使徒に何の関係もない者であり、ゆえに小羊の群れに属さない者、霊界の山羊、終に外の幽暗に追い出されて、哀哭し切歯する者であろう。
しかし、何を恨もうか。パウロは何者か、ペテロは何者か。パウロ自身の言葉によっても、彼等は「
我等をして信ぜしめんとて勤むる者なるの外なし」。
私は、系統を聖使徒から引いていないからと言って悲しまない。私は直ちにキリストに行くからである。
去れ、正教会。退け、聖使徒。聖子は自由を私に与えて下さった。そして聖使徒であっても、この自由を私から奪うことは出来ないのである。コリント前書3章5節。ヨハネ伝8章26節。
12.真理と独立
真理は自己を支持すると言う(Truth supports itself.)、ゆえに真理は自ずから独立である。これに反して、虚偽は自己を支持出来ない。ゆえに自ずから依頼するのである。独立は真理を証し、依頼は虚偽を証する。これに優って確実な、真偽を試す標準はない。
外国人宣教師によって伝えられたキリスト教なるものを見よ。その帰依者は、教会と宣教師とに依頼することなしには、一雑誌を起すことも出来ない。一教会をも建てることが出来ない。それにもかかわらず、彼等は真理を伝えると称する。
しかし彼等の依頼は、彼等の伝える真理が、真理でないことを証しする。彼等は意力の欠乏を歎く必要はない。なぜなら、彼等といえどももし真理を受けたならば、独りで立って道を伝えることが出来るからである。
人を独立させない宣教師のキリスト教は、真のキリスト教でないことを自証して余りある。
13.聖書人物の真価
聖書人物は、その全てが無誤謬なのではない。キリストだけが、無誤謬なのである。キリスト以前に誤謬はあった。キリスト以後に誤謬はあった。モーセに誤謬があった。ダビデに誤謬があった。イザヤに誤謬があった。エレミヤに誤謬があった。全ての士師と全ての預言者に誤謬があった。
またパウロに誤謬があった。ペテロに誤謬があった。ヨハネに誤謬があった。ヤコブに誤謬があった。全ての使徒と、全ての聖徒に誤謬があった。
イエス・キリストだけには誤謬はなかった。私達は、彼を模範とすべきである。その他の聖書人物に至っては、彼等がキリストに似るだけ、それだけ彼等を私達の師表として仰ぐべきである。しかしそれ以外においては、彼等に倣ってはならない。
14.信条と救済
信条があって後の救いではない。救われて後の信条である。信条は、救済の事実の表白に過ぎない。ところが、信条を信じさせて、その後に救おうと思う。今の伝道なるものが効を奏しないのは、このためである。
先ずキリストを紹介し、彼を師として仰がせ、彼に倣って生涯を送るようにすれば、人は誰でもキリストが何であるかを知るようになるであろう。
信条は、救われた者が、各自案出すべきものである。救われない者が、他から注入されるべきものではない。
15.儀式の単純
儀式は、単純なものを良いとする。儀式は単純なだけ、それだけ荘厳である。聖書は、キリストの葬式について記していない。私達はまた、使徒達がどのように葬られたかを知らない。
神の人モーセが死んで、「
エホバ、ベテペオルに対するモアブの地の谷に之を葬り給へり。今日まで其墓を知る人なし」(申命記34章6節)と言う。
葬式がそうである。結婚式がそうである。もし必要があるなら洗礼式もそうである。証人は、神と天然と少数の友人で充分である。俗衆の注目を引いて、荘厳を装う必要は絶えて無い。
完