全集第18巻P113〜
新約聖書の預言的分子
明治44年5月10日
聖書は三つの部分から成る。その第一は歴史である。その第二は教訓である。その第三は預言である。聖書は純道徳ではない。歴史の事実によって証明された道徳である。また預言の希望によって奨励された道徳である。
道徳はその中心であるが、しかし聖書の道徳は、独り立つ道徳ではない。過去の事実(歴史)にその基礎を置き、未来の希望(預言)にその実現を期する道徳である。
これを旧約聖書に就いて見れば、その三分的組織は一目瞭然である。そのモーセの五書とヨシュア記と士師記とサムエル前後書と列王記略上下と、歴代誌略上下と、これに加えてエズラ記、ネヘミヤ記は、誰が見ても歴史である。
これに次いで、ヨブ記と詩篇と箴言と伝道の書とは、誰が見ても教訓である。そして最後に来る四大預言書と十二小預言書は、その名の通り預言である。このようにして旧約聖書は始めに歴史、中に教訓、終りに預言である。
そして新約聖書もまた、その組織において旧約聖書と異ならない。旧約の最も明白な歴史的分子であるモーセの五書、即ち創世記、出エジプト記、レビ記、民数紀略、及び申命記に対して、新約の五書とも称すべき四福音書ならびに使徒行伝がある。
これに次いで、新約の教訓である使徒等の書簡がある。そして最後に新約の預言である黙示録がある。新約は、旧約に倣(なら)って成った書である。新約はその組織において、旧約の復作であるに過ぎない。
聖書は、その全体の組織において三分的である。そしてその各部もまた、これを分析すれば三分的である。今試みに新約の歴史の一つであるマタイ伝について見てみると、その純粋な歴史的分子に加えて、山上の垂訓のような純粋な教訓的分子がある。
またその第24章ならびに25章におけるように、純粋な預言的分子がある。またその教訓的分子である山上の垂訓の中にも、歴史的分子もあれば、また預言的分子もある。
「
イエス多くの人を見て山に登り、坐し給ひければ弟子等も其下に来れり」とあるのは歴史である。また「
汝等より前(さき)の預言者をも如此(かくのごと)く迫害(せめ)たりき」とあるのも歴史である。
イエスが、「
古(いにしえ)の人に告げて言へること有るは」と幾回となく繰返して宣(の)べられたのは、歴史を基礎として教訓(おしえ)を与えられたのである。山上の垂訓は、旧約の歴史を土台として述べられた教訓である。
その事は明白である。しかしながら、多くの人の気が付かないことは、山上の垂訓の中に預言的分子が多く在ることである。イエスもまた預言者である。ゆえに彼もまた、旧約の預言者と同じく、教えると同時に預言されたのである。
そして実に、預言者である彼は、預言しつつ教えられたのである。彼に在っては、教訓は預言と分離して伝えられたものではない。二者は一体であった。彼の教訓は、未来を期しての教訓であった。
「
心の貧しき者は福(さいわい)なり」とは教訓である。そして「
天国は即ち其人の有(もの)なれば也」とは預言である。
「
殺すこと勿れ」とあるのは教訓である。そして「
すべて故(ゆえ)なくして其兄弟を怒る者は、審判(さばき)に干(あずか)らん。又其兄弟を愚者(おろかもの)よといふ者は集議に干らん。
又狂妄(しれもの)よといふ者は地獄の火に干(あずか)るべし」とあるのは、未来の裁判においては誹毀(ひき)罪は殺人罪として罰せられるであろうということを伝えた預言である。
「
凡(およ)そ婦人を見て色情を起す者は、中心(こころのうち)すでに姦淫したる也」とあるのは教訓である。そして、「
五体の一を失ふは全身を地獄に投入(なげい)れらるゝに勝れり」とあるのは、未来の裁判が恐るべきことを示して、姦淫の罪をその根底において戒めた預言的教訓である。
「
隠れたるに見たまふ汝の父は、明顕(あらわ)に報ひ給ふべし」と三たび繰返して言われたのは、ペテロ前書1章7節に「
汝等イエス・キリストの顕はれん時に、称讃(ほまれ)と尊貴(とうとき)と栄光(さかえ)とを得ん」とあるのと同じく、明白な預言である。
そして垂訓の最後の一節である「
雨降り大水出で風吹きて其家を撞(う)てども云々」は、これまたペテロ後書3章5、6節に、「
上古(むかし)天あり、又水より出で、且(かつ)水に由りて立ちし地ありたり。
而して之に由りて古(いにしえ)の世水にて掩(おお)はれて滅びたり」とあるように、最後の審判をノアの時の大洪水になぞらえて宣(の)べられた預言である。
このようにして、山上の垂訓は同時にまた、山上の
預言である。預言によって励まし、また預言によって戒めた垂訓である。その預言的分子を取り除けば、山上の垂訓は、その動機を失うのである。
イエスは、孔子やプラトンのように、純道徳を唱えられたのではなかった。彼は、天国の福音を宣(の)べられた。天国に入る資格として善を勧め、滅亡(ほろび)に入る道として、悪を戒められたのである。
またイエスの比喩(たとえばなし)なるものは、多くは預言的比喩である。「十人の童女」の比喩もこれである(マタイ伝25章)。「智(かしこ)き僕と愚かなる僕」の比喩もこれである(同14節以下)。羊と山羊との比喩もこれである。
その他イエスの再臨と未来の審判に関わる比喩は数多い。福音書の大部分が預言的であることは、誰も否むことはできない。
今また純粋な教義の書であるかのように思われるロマ書について観ても、その大部分が預言であることを見るのである。教義に関する議論は、始めの八章で尽きている。あとは預言である。第八章は、信者と宇宙との結末に関する大預言である。
「
我れ思ふに今時(いまのとき)の苦(くるしみ)は、(後に)我等に顕はるべき栄光(さかえ)に比ぶべきに非ず」と。また、「
受造者(つくられしもの)の切なる希望(のぞみ)は、神の諸子(こたち)の顕はれんことなり」と。
また、「
己れの子を惜(おし)まずして我等すべてのために之を付(わた)せし者は、豈(など)か彼に併(あわ)せて万物をも我等に賜はざらん乎(や)」と。以上は、宇宙の改造と信者の栄光の顕彰とに関する大預言である。
第9章から第11章にわたって、パウロはイスラエル人の将来について預言している。パウロの歴史哲学は、ここにある。万国はどのように成り行くのか、そして彼等の中にあって、イスラエルの運命はどうかと。
パウロの歴史哲学はヘロドトスのそれよりも雄大である。歴史を預言的に解釈しようとした者であって、パウロがヘーゲルに劣らない哲学者であったことを示し、またイザヤ、エレミヤとならび称すべき預言者であったことを証しする者である。
第13章10節以下は、預言を以てする訓戒である。第14章10節において、「
汝何ぞ其兄弟を審判(さばき)するや。何ぞ其兄弟をかろんずるや。我等は皆なキリストの台前に立つべき者なり 」と言って、パウロは未来の裁判を預言して信徒相互の批判を戒めている。
実践的教訓で満ちているコリント前後書もまた、多くの預言を載せている。コリント前書第15章は、未来の復活に関する大預言書である。後書第5章1節から10節にわたって、復活と審判についての預言がある。
前書16章22節に、マランアサー(主来り給はん)の一言を残して、パウロはキリストの再臨を預言し、また信者の大希望を述べたのである。
慰めの書簡と称えられるピリピ書もまた、「
汝等の心の中に善き業を始め給ひし者、之を主イエス・キリストの日までに全うし給ふべしと我れ深く信ず」(1章6節)とか、
また有名な「
我等の国は天に在り。我等は救主即ちイエス・キリストの其処(そこ)より来るを待つ。彼は万物を己れに服(したが)はせ得る能力(ちから)に由りて、我等が卑しき体(からだ)を化して其栄光の体に象(かたど)らしむべし」と言うような、預言的希望を掲げている。
テサロニケ前後書のほとんど全部が預言である。キリストの再来と信者の復活と、その前兆であるべき社会的現象とは、最も明確にこれらの二書において預言されている。
牧会書簡と称せられるテモテ前後書ならびにテトス書は、パウロの書簡としては甚だ疑わしいものであるが、しかし、初代の信者の信念を伝える書としては、充分に信じるに足るものである。
そしてそれが、キリスト教会の将来について預言するところは、最も明白で、最も痛切である。
「
聖霊明かに曰ふ、後日(のちのひ)に至らば或人信仰より落ち、誘ふ霊と悪魔の教に耳を傾くるに至らん」(テモテ前書4章1節)と。また「
汝此事を知るべし。即ち末日(すえのひ)に困難の日到らん。其の日到らば人々己を愛し、云々」(同後書3章1節以下)と。
また「
我等の大なる神にして救主なるイエス・キリストの顕はれんことを待望む」(テトス書2章13節)と。
初代の信者の信と言い、愛と言い、未来の希望を離れて在ったものではない。預言は、彼等の生命であった。ゆえにパウロはコリント人に告げて言ったのである、「
汝等愛を追求め且つ聖霊のさまざまの賜物を慕ふべし。然れども殊に慕ふべきは預言する事なり 」(コリント前書14章1節)と。
初代の信者は現代の信者のように、預言を軽視し、ただ倫理と理想と社会改良とだけを語った者ではない。
「
霊を消すこと勿れ。預言を藐視(なみす)る勿れ」(テサロニケ前書5章19、20節)とパウロはまた言った。現代の信者は、明白にパウロのこの言葉を軽視する者である。
ヘブル書もまた、慰藉の預言に富んでいる。
主よ汝は元始(はじめ)に地の基(もとい)を置き給へり
天も亦(また)汝の手の工(わざ)なり
此等は亡びん
然れど汝は恒(つね)に在(いま)さん
此等は旧(ふる)びん
汝、此等を袍(うわぎ)の如くに捲(たた)み給はん
彼等は変らん
然れど汝は変ることなし
汝の寿(よわい)は終らざる也
とあるのは、単に神の無窮を称えた讃美の歌としてだけ見るべきではない。聖書の他の記事と比べてみれば、これまた世の終末に関する預言であることが判明(わか)る(ヘブル書1章10節以下)。
「
信ずる所の我等は安息に入ることを得るなり」(ヘブル書4章3節)と言い、また信者は、「
来世の権能(ちから)を嘗(あじわ)ひし者なり」(6章5節)と言い、また「
活ける神の手に陥るは懼(おそ)るべき事なり」(10章31節)と言い、
また最後に「
我等は此処(ここ)に(この世に)在りて恒に(永久に)存する城邑(みやこ)(住家)なし。惟(ただ)来らんとする城邑を求む」(13章14節)とあるのを見て、最初のキリスト教弁証論と称せられるこのヘブル書もまた、預言者の精神で書かれた者であることが判明(わか)る。
またヤコブ書のような純然とした実践道徳の書であるかのように見える書でも、預言の精神は決して欠けていない。使徒ヤコブは、富者の横暴に対して、貧しい信者を慰めて言った。
「
兄弟よ、忍びて主の臨(きた)るを待つべし。視よ、農夫、地の貴き産を得るを望みて、前と後との雨を得るまで忍びて之を待てり。ゆえに汝等もまた忍ぶべし。汝等の心を堅くせよ。そは主の臨り給ふこと近ければ也」(ヤコブ書5章7、8節)
と。初代の信者の希望と慰藉とは、ただこの一事であった。即ち、「
兄弟よ、忍びて主の臨るを待つべし」と。彼等が病んだ時、彼等が死んだ時と彼等が貧に苦しんだ時に、彼等の唯一の希望と唯一の慰藉とは、この預言であった。
ペテロ前後書は、殊に預言の書である。その記者は、殊更に預言の研究を読者に勧めて言った。「
殊に預言の確信の我等に在るあり。この言は、暗所に輝く燈(ともしび)の如き者なり。夜の明くるまで明星の汝等の心の中に昇るまで之に注意するは善し」(ペテロ後書1章19節)と。
そして記者自身のこの言葉に従い、彼の書簡は殊更に預言を以て与えられた教訓と警戒と慰藉とである。「
汝等の心の腰に帯し、慎みてイエス・キリストの顕はれ給ふ時に、汝等に来らんとする恩恵(めぐみ)を疑はずして望むべし」(ペテロ前書1章13節)と。
また、「
万物の末期近づけり」(同上4章7節)と。また、「
汝等キリストの苦(くるしみ)に与るを以て歓楽(よろこび)とすべし。然らば彼の栄の顕はれん時、汝等も亦喜び躍らん」(同上4章13節)と。
殊に
ペテロ後書に至っては、これは世の末期と万物の結末に関する一大預言である。
「
主の日の来ること盗人(ぬすびと)の夜来るが如くならん。其日には天大なる響(ひびき)ありて去り、体質悉く焚毀(やきくず)れ、地と其中にある物皆な焚尽(やきつ)きん。
……神の日には天焚毀(やきくず)れ体質焚熔けん。然れど我等は彼の約束によりて新らしき天と新らしき地とを待望む。義其中に在り」(ペテロ後書3章10節以下)と。恐怖と歓楽と、絶望と希望と、滅亡と復興とは、火を見るよりも明らかにここに預言されている。
以上は新約聖書中、預言の書として認められていない書の中に記された預言である。その歴史は預言である。その教訓は預言である。聖書の記者は、預言するのでなければ、歴史をも道徳をも語り得なかったのである。
そして新約聖書の特殊な預言である、最後の黙示録に至っては、それが徹頭徹尾預言の書であることは、誰が見ても明らかである。
黙示録は、殊に
未来の書である。福音書が過去を記し、書簡が現在を教えようとしているのに対し、黙示録は殊に未来を示そうとした。黙示録の真価、その興味、その荘厳はここにある。
未来を洞察しようとせずには、黙示録は分からない。その中に多少の教訓が伝えられていないではない。しかしながら、それが特に伝えようとしている事は、この世と教会との未来についてである。
この世はどのように成って行くのか。教会はどのように成っていくのか。その堕落の程度はどのくらいか。神はどのように二者を罰されるか。そして最後の結末はどうかと。これらの大問題に対し、明白な解答を供する者が、新約の大預言書である黙示録である。
私は今ここに、その概略をさえ述べることはできない。かつて本誌においてこの書について少し述べたことがある。また神がもし許されるなら、後に大いに述べたいと思う。今はただこの書を、旧約の十六預言に対する新約の大預言として、読者に紹介しておくまでである。
現代の信者が、なぜ黙示録を読まないかと言うと、
それは彼等が、未来について注意しないからである。彼等はあまりに現世的である。この世を天国に化して、ここにすべての幸福を求めることは、彼等の主な願いである。また彼等のすべての運動の動機である。
彼等は昔のギリシャ人のように、この世以外に天国を求めない。ゆえにこの世の政治を浄化し、社会を改良し、もしできるなら自分は貴族となり富豪となって、大いにこの世を楽しもうとする。
ゆえに彼等には、来世について知ろうとする欲もなければ、望みもない。したがって彼等は、黙示録のような未来について語る書に対して、興味を有(も)たない。ゆえにこの書は、彼等に対してはその記者が言うように、「
七の印にて封印せられたる巻物」(5章1節)である。
彼等は単に「奇異(ふしぎ)の書」としてこの書を見る。とうてい分からない書と見做して、これを開かない。彼等の眼は、この世に眩(くら)まされて、敢えて光明の黙示に与ろうとしない。
しかしながら、黙示録は新約の結論である。イエス・キリストがその隅の首石(おやいし)となり、使徒がその上に築いて成った新約の大構造は、黙示録を冠石
(かむりいし:armor stone; cope-stone)として、その陥穽を告げたのである。
マタイ伝なしにはキリストの福音が分からないように、黙示録なしにはキリスト教は無意味である。
福音は単に教訓ではない。理想ではない。倫理ではない。天地と万物と、世と人と、善人と悪人と、神の敵と彼の子供達とに関わる預言である。聖書からその大預言を取り除いてしまえば、聖書は聖書でなくなるのである。
それでは聖書は何を預言するか。これが、私が聖霊の指導を得て、稿を改めて再び読者に語りたいと思う問題である。
完