昨日の続きです。
雛歩は、用を済ませたあと、何度も自力で部屋に帰ろうとした。(中略)
「もうよろしきあな。お済みになられたかなもし」(中略)
にこやかに声をかけてきたのは、色の黒い大柄な外国人女性だった。(中略)
この人が、こまきさんお話ていたマリアという人だろうか。(中略)
「ここはなんていうところですか、どんな場所ですか」
と、あらためて雛歩は尋ねた。
マリアさんは、少し驚いた表情を浮かべ、
「ここはなぁ、もうあんたのおうちよ」(中略)
「あとのことは、助けてくれたお人に、直接聞いたほうがいいぞなもし」
と、こまきさんと同じ答えをして、部屋を出ていった。
またいくらか眠ったのだろう。雛歩が次に起きたときには、枕もとに髪をシャープに切りそろえた、二十歳前後に見える、細面の男性が正座していた。(中略)
「熱を計らせてください」(中略)
「先生、この子は、我々の存在が理解できずに、戸惑っているのでしょう」(中略)
「トミナガ先生」
と、雛歩の足もとに控えていた、髪の白い子柄な女性が声をかけた。(中略)
「リンゴを煮たのと、野菜をこしたスープを、雛歩さんに上げてもええでしょうか」
「ほう構わんよ。栄養をつけたほうがええけんなあ。(中略)」
フクロウ医師が部屋を出るのと入れ替わりに、ショウコと呼ばれた髪の白い女性が、まだ半身を起こしたままの雛歩のそばに、お盆を持って進み出る。(中略)
「ほうほう、ヨウレンキンが陽性じゃ。高い熱はそのせいじゃろ。大丈夫、抗生物質を飲んだら、すぐに熱は下がる。(中略)」
薬を飲んだあと、すぐに眠気が訪れて、しばらく意識がなかった。(中略)
どのくらい時が経ったのか、目を覚ましたとき、辺りにはまだカーテン越しの日の光が残っており、隣の布団は片付けられていて、人の姿はなかった。
雛歩は、この場所自体に、薄気味悪さを感じはじめていた。会う人みんなが親切なのは、有り難いは有り難いのだけれど、その理由がわからず、逆に不安になる。(中略)
やはり指名手配されているのだろうか。(中略)
もし捕まって、死刑になれば、永遠に笑顔の写真が残されることはない……そのことを思って、雛歩はあらためてショックを受けた。(卒業写真での)カメラマンを睨みつけている写真で終わるのはいやだ。(中略)
だから……。雛歩は決意した。ここから逃げよう。ここを出ていこう。(中略)
どこへ行こう……わたしはどこへ行けばいいのだろう……雛歩は考えあぐねて、
「行くところなんて、わたしにあるのかな……」
思わず言葉が洩れた。
「あるぞな」(中略)
「ここよ。あんたが行くところは、ここぞな」(中略)
「ごちそうさまでした」
空になった器に向かって頭を下げ、そばに座っている人のほうへ視線をやる。
誰の姿もなかった。(中略)
胃が満足したこともあってか、逃げる、という決意もしばし忘れて横になり、気がつかないうちに寝入っていたらしい。雛歩は尿意で目が覚めた。
危ない、と思う。(中略)手を突っ張り、からだを起こす。拍子抜けするくらい簡単に起きられた。(中略)
前回は気づかなかったが、トイレ内の窓の美しさに目を奪われた。ステンドグラスになっている。岩に囲まれた泉につかっている白い鳥の姿が、繊細な色づかいのガラスの組み合わせで表してある。(中略)
雛歩は、立ち上がって、トイレから出た。(中略)廊下の先からs、人の気配が伝わってきた。足音がして、部屋のドアを開ける音がする。(中略)
奥の窓から差す光の中に、廊下沿いに並んだ部屋の一つから、奇妙な影が現われ出た。
ゴリラ? 体格のよい影は、前かがみになり、袖の先から前に垂らした左手に袋状のものを持って、隣の部屋に入ってゆく。右腕のほうは袖だけで、手の先は見えない。
(中略)廊下に、手にした袋を落とした。拾い上げるとき、袋の口が開き、中から紙切れとコインが数枚廊下に落ちた。紙切れは、遠目だが、一万円札と千円札らしいと見て取れた。
泥棒?(中略)
「誰かー、泥棒でーす、誰か来てー」(中略)
遠くで呼ぶ声がする。名前を呼ばれている。
「雛歩さん、雛歩さん、どうしたの、何かあったの」
迫ってくる影の向こうに、白い光がきらめいた。光は広がり、大きな鳥の翼に変わる。(中略)
白い大きな鳥は、黒い影を追い払い、雛歩の前に翼を広げる。乳白色の霧の中で出会った、性格的な強さと温かい寛容さをあわせ持つ、雛歩の理想とする女性の顔が目の前にあった。(中略)
女性は、廊下の隅に追い払った影を振り返った。すると、泥棒ゴリラが肩をすくめた。(中略)
「この人はね、イノさん。この家の大切な一員なの。怖そうに見えても、とても優しい人だから、安心して」
(イノさんは、ここがどんな場所かを浪曲調で説明した。)
(また明日へ続きます……)

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