というわけで月曜日の夜、
林哲司さんとお会いしてお話を色々伺ってきました。
林哲司さんは、ご自身もシンガーソングライターとして活動されており、作曲、アレンジャーとして数々のヒット曲を生み出されてきた方でございます。竹内まりや「セプテンバー」とか、杏里「悲しみが止まらない」とか、杉山清貴&オメガトライブ「ふたりの夏物語」、上田正樹「悲しい色やね」もそう。松本伊代「信じかたを教えて」、菊池桃子「卒業-GRADUATION-」、原田知世「天国にいちばん近い島」とかね。
どうよ、この80年代を彩るヒット曲の数々!
でね。普通はそういったヒット曲の逸話をいろいろ聞くのが当たり前だと思うんですよ。でも、今回は敢えてそういうのはバッサリカットしました。それでエエのか(笑)!?いや、そういうのは今までもインタビューや林さん自身のHPで思いを語っていらっしゃるしね。
じゃあ何を聞いたのか?っつーと、最近紙ジャケ再発されたご自身の1stアルバムである「BRUGES〜ブルージェ」(1973年 とてもイイSSW作品)の頃のお話、とか70年代末のディスコ・ユニット、イースタン・ギャングの話とか、ビルボードの93位、イギリスでは36位にランクインした、JIGSAWに書いた曲「君にさようなら」の話とか、そういうあまりスポットを当てられない部分の話を聞いてみましたよ。
知れば知るほど、この林哲司さんの辿ってきたキャリアはとても興味深いんです。スズキは常々言ってましたが。70年代から80年代、そして現在にわたる日本のポピュラーミュージック史の重要な部分に位置する方なんです。だけどね、不当と言えるほど評価が低い。
それは僕自身も引きずられていたという自戒を込めて書きますが、80年代以降に様々な場所で書かれた日本のロック、ポップス史が再評価を促すがあまり、とても偏ってしまっていたということが大きい。例えば70年代頭の日本のポップスの話をするとどうしてもはっぴいえんどを重要視することが多いが、実際には売り上げや当時の状況を調べてみると、その時期の若者への影響力は吉田拓郎、井上陽水、かぐや姫のほうが全然大きい。だけど、そのはっぴいえんどの捉え方があまりに大きいため、いつの間にかあたかも当時から人気があった、みたいな勘違いを生んでいたりもする。
それは山下達郎氏がシュガーベイブ時代を語る際にずっとマイナーなバンドだったということを言い続け、日本のポップス・クリエイター達に対する評価は偏っていると発言したことからも明らか。
はっぴいえんど人脈参加、制作作品の紹介回数に対して、その流れ以外の素晴らしい作品を紹介してこなかった、そして売れているものを評価していく行為をしなかったツケが少しづつずれを生じさせ、その結果誤解を生んでいるのはないかなーと思います。他にも理由は様々ありますがね。
当時のアルバム売り上げとかを見てみる、とか数字で出てくる客観的な事実をもっと伝える必要性があったと思います。その上で再評価しないと勘違いされても仕方ないよなー、と思う。
21世紀前後になって少しづつではあるけれど、公平な紹介がされるようになってはいるけれど、まだまだ偏りはあると思う。
あくまで誰が悪いとか、はっぴいえんど人脈の作品の評価が不当に高い、とかいってるのではなくて、当時の状況はこうで、売れていたこれもいいし、当時は売れなかったけどこれもいいよね、という視点がずっと欠けていたというお話。オレも大好きだし、はっぴいえんど人脈作品群。
実はそういうシリアスな話もしました。ロック〜SSW〜MOR〜ニューミュージック〜J−POPにつながっていく時代の流れを体験なさってきた林さんならではの冷静な分析もありました。
なんたって2時間半話しましたからね、どこまであのジャングルライフ1ページに掲載できるのかと。到底無理(笑)。だから2号にわたって紹介する予定です。それでもたぶんかなりはしょってしまう。もったいないなあ。
誰か、東京ポーキーズのHPを作ってもいいよという奇特な方がいらっしゃいましたら連絡ください、だいぶマジで。そういうところにロングバージョンを載せるしかないんだろうなあ、と思うのね。
楽しみにしてくださいよ。締め切りは金曜日!だが…オレ出張に行っちゃうからなあ。出張先でやりますよ。やる、と思う、たぶん(笑)。

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