TVや広告の様にありきたりのお悔やみ慰めの言葉を連ねるには、複雑な心境でした。
本来ならば、いち早く発信するべきなのかもしれません。
しかし、私なんかが、それを口に出して、文字にして良いのだろうか?
と言う気持ちが大きく、書いている今でも心は揺れています。
揺れて居る気持ちは幾つかの理由が一緒に重なってあります。
1、今回の東日本関東大震災の前にNZ地震が有りました。その時、友人の子どもが留学して居て大丈夫な場所だったからと、よく考えれば、瓦礫の下で夢を断念せざる得なかった
方達もいたのに、その周りの方々の気持ちを考える事が出来ませんでした。
2、日本の大震災では、東北・茨城・千葉に親戚、友人が居たりで安否や原発の情報にやっきで、今もそうですが、計画停電の時にやっと、被災者の方々は寒く、暗く辛い事態で、思い出も何もかも流されてしまったのだと思った訳です。
弊社の「さき織り」は「思い出も織り込みます」もひとつのコンセプトになっています。それもなくなってしまった方を思うと、胸が痛いです。
中越沖地震に私達家族は遭いました。 それも、柏崎刈羽原発のすぐ近くの海で泳いで、上がった直後でした。 一足先に家に居た私と友人ママとお風呂に入っていた息子は震度6強の揺れに耐え乍、家の食器の壊れゆく音を聞き、お風呂場からの息子の白い手が伸びるのを見、ママ友の階段を死ぬかと思った。と怪我しながら降りて来たり。 すぐに、津波が来ると恐れたし、家の裏が柔らかい切り崩しの山だったので土砂崩れも不安材料で、なにより、原発から煙があがり、放射能もれの心配が一番だった事。
私達は県外で逃げる場所があっただけマシですが、住んで居らっしゃる方達は防ぎ様がない。 あの時は、放射能漏れはないと発表されましたが、やっぱり漏れていたそうである。 逃げたという思いは消せない。
義姉がお世話になったアメリカのマムから、心配する手紙とショール日本にマムの所属するキリスト教の団体から支援金を送りました。とメールがありました。 マムは親戚から、日本は大丈夫か?と尋ねられるそうです。 日本にいる私達より敏感に反応してしまっているようでした。 マンハッタンに原発があるのですから、当たり前ですね。
でも、こうして、心配して頂けるのは有難いことです。
親戚に警察と、自衛隊で頑張ってくれている人もいます。
だから、揺れるのです。
地震や放射能の恐怖、そして、生活基盤の消失を思う時、無責任に「頑張れ」とか
言えはしないし、体験者しか分かり得ないものもあるのは確かな事で、私自身、
微力ながらの支援しかできないのですが、継続していきたいと思います。
寄り添う様に、居てあげたいです。
やはり、これも逃げなのでしょうか。

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