アドホック日記そのほか:: 三浦俊彦 の時空間

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投稿者:φ
では、
1540は「諦め」or「諦観」で踊ってみます。(曖昧に)
投稿者:マイコ
ふと「諦め」と「諦観」の違いについて考え込んでしまい、「諦観」という言葉を使ったアフォリズムを作ってみたくなりました。一行目は人生観としての諦観で、二行目は精神文化としての諦観にしようと思って書いてみたのですが・・・よくわからなくなってしまいました・・・。
文事を好まない質実な人にとって諦観は諦めになってしまいそうですが、文事を好む文人気質のおじいさまたちの「諦観」は東洋の精神文化なのかなと思い、「人」と「文人」を使い分けてみました。
「諦め」は気力を失いますが、「諦観」は悟りに近いもののように見せかけておきながら、ものすごく執拗な気力を発揮するようで気になります。諦観している態度をとりながらも執拗に研究し続けて長生きする学者のおじいさまはかっこいいなと思います。
「諦観」という言葉は諦めることの意味の他に、入念に見るという意味もあるようです。「諦観」を決め込むと、諦めて淡白になるのではなくて、物の見方が強固になるせいか執拗さが際立つような気がします。諦めてるはずが執拗に生きるスタンスになってしまうなんて面白いなと思ってアフォリズムにしたくなったのですが・・・何だか曖昧になってしまいました・・・。
投稿者:φ
「人」と「文人」の使い分けには何か意味が?
投稿者:マイコ
諦観によって寿命を縮めてしまうのは質実な人。
諦観によって寿命を延ばしてしまうのは執拗な文人。

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