岡田花園1889年から1926年まで存在した。優雅な花園の痕跡は天文台だけだろうか。他にも何かある筈だ。札幌市天文台は小高い築山の上にあり、岡田山と呼ぶ人もいる。「これが山?」と不思議に思っていたが、岡田花園があったころはもう少し高かったようだ。
2011年秋に開催された「資産と活用を考えるシンポジュウム」に於ける講演でコメンテーターの笠先生は次のように話された。
「…越後から来た岡田左助が、池と水をうまく使った遊園である岡田花園を造っております。明治42年(1909年)に新渡戸稲造夫妻が来札した時に(当時帝国大学になっておりますが)、宮部金吾ら札幌農学校の同級生たちが集まって写真を写しております。
実はこれが『岡田山』で岡田花園にあった築山です。これが今では上に天文台が乗っかっていて、こんなに高い山だったのかとビックリしておりますが、どうも天文台を建てる時に頭を少し低くしたようです」
こんなに高かったのかとビックリした岡田山の写真は、シンポジウム報告書9ページに載っている。
「5月21日の金環日食の朝は岡田山が人でいっぱいになりましたね」
「岡田山?」
「天文台のあるあの山ですよ」
「あれでも山か。階段20でテッペンだぞ」
「岡田花園にあったから岡田山なのです」
「岡田花園? 聞いたことないぞ」
「明治22年から大正までありました」
「ずいぶん古い話じゃないか。今で言えばどのあたりかな?」
「日本庭園からキタラあたりまでの広がりがありました。中島公園の西側部分ですね」
岡田花園は1889(明治22)年から1926(大正15)年くらいまで存在したが、はっきりと痕跡を残しているのは天文台くらいだろう。岡田山は池を造ったときに出た土を盛って造ったと聞いたことがある。
岡田花園エリアは、現在の中島公園で言うと日本庭園から豊平館、天文台、札幌コンサートホール Kitaraあたりと思う。そして岡田花園は今は住宅地になっている鴨々川のの西側まで広がっていたようだ。園内にあった築山は岡田山と名付けられ、現在は頂上に天文台がある。
「岡田花園が閉園したのは1926年、そして天文台の開館が1958年。その間32年もあるが、どうしていたのだろう」
「近くに『子供の国』が出来たので、岡田山も子供たちの遊び場になっていたと思います」
「今でも天文台スロープで遊んでるな。冬はソリとかスキーとか」
「1926年に国産振興博覧会があり、このとき初代『子供の国』を造ったそうです」
「初代というと次もあったのか?」
「次は1958年の北海道大博覧会で、本格的な『子供の国』になったのです。そして1995年に円山動物園に移設されました」」
整理すると1889年岡田花園開園、1926年岡田花園閉園、その跡地南側部分に「子供の国」が造られた。そして1958年の北海道大博覧会でも子供の国が作られ、博覧会終了後、札幌振興公社がその運営を引き継いだ。「子供の国」は1958年〜1994年の間中島公園内にあった。
そして、1997年ほぼ同じ場所に札幌コンサートホールKitaraオープン。この部分には岡田花園を偲ばせる痕跡はないような気がするが、どうだろうか?
豊平館(1958年移築)や日本庭園(1963年完成)が出来るまでの跡地利用は、どうだったろうか。このあたりはよく分からないが「さっぽろ文庫84・中島公園」に、日本庭園についたて次の様な記述がある。
「1955年頃は建築用の樹木を育てる苗圃(びょうほ)があり、花壇に囲まれた相撲の土俵もあった。当時の未開発地域だったわけで、ここに市民の憩いの場として大規模な日本庭園を造ることにしたのは原田興作市長だった。」
1961年、庭園造成工事が始まり2年かけて完成。日本古来の名園を参考に、池の護岸もセメントを使わず石と丸太で組まれている。12基の石灯籠は京都の老舗石屋により作られた。日本庭園は冬季間閉鎖されているが、春のシダレサクラ、秋の紅葉が美しい。
『中島公園百年』には、「池の西端の突出部分は、元は岡田花園内の池であった。太鼓橋はその名残である。豊平館、八窓庵は岡田花園の跡地利用にほかならない」と書いてある。 菖蒲池と豊平館前の池の間に架かる太鼓橋は今はなく普通の橋に代わっている。

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