先週、須賀川市の文化財保護審議会に出席した折、
一連の案件の審議が終わって、須賀川市教育委員会が制作した「古寺山自奉楽」のビデオが上映されました。
古寺山自奉楽とは、須賀川市上小山田地区において代々伝承されている民俗芸能で、国指定文化財です。古寺山白山寺の聖観世音が33年ごとにご開帳されるのに合わせて奉納するもので、平鍬踊、田植踊、獅子舞の3部構成になっています。
ビデオは、福島県文化財保護審議会委員で民俗芸能研究家の懸田弘訓先生が監修なされ、ナレーションも付いた本格的な内容でした。
古寺山自奉楽の平鍬踊、田植踊、獅子舞のうち平鍬踊、田植踊は、地元の子供たちの踊りですが、地元では、踊り方を保存するために、毎年子供たちに踊り方を教え、所々で公開するなど、古寺山自奉楽の伝承を絶えさせないように努力されています。
ビデオ上映で古寺山自奉楽の平鍬踊、田植踊、獅子舞の稽古の様子を見た僕は、
「これが縄文文化」だと感じました!!!
伝統芸能の稽古は、「様式」を伝える稽古です。
手の動き、足運び等々、こまかな「動き方」を伝え、繰り返し稽古して、伝統「様式」を受け継いでいきます。
日本人は、日本の中でだけ生活していると気が付かないことがありますが、日本の伝統文化、これは伝統芸能に限らず、伝統工芸、伝統技術、そして農業や漁業などの産業においても、日常生活においても「様式」を重んずる風潮がありました。
市町村史の「民俗」編をお読みになられればわかると思いますが、昔の人は、生活の各場面において、しきたりや作法・手順などの「きまりごと」を非常に重んずるのです。神社の祭礼なんかはその最たるものです。マタギの山入り風習なんかもそうです。タタラ製鉄や刀鍛冶のような危険をともなう伝統工芸などは、なおさらしきたりや作法・手順を非常に重んじます。ジャンルは違いますが、歌舞伎なんかは「様式美」の世界と言われています。
「様式」は「きまりごと」すなわち、しきたりや作法・手順によって守られます。
昔の人は、さまざまな「様式」を大切に守ってきました。
日本における「様式」の集大成が「日本文化」だと思います。
それはどういうことなのでしょうか?
「共同体」がキーワードになります。
日本人は、古来より「相互扶助」により生きてきました。
「様式」は個人では成立しませんし、守ることもできません。
「様式」の基盤に「共同体」が不可欠です。
「共同体」のなかでさまざまな生活技術を共有し、「共同体」として生活技術を効果的に活用し、それを子孫に確かに伝えて行く方法として、生活する技術を「様式」化したと思われます。それが伝統工芸、伝統技術、伝統芸能として今に残っているのです。
その「共同体」がまさしく「ムラ」であり「クニ」でしょう。
「ムラ」の人々は、「相互扶助」により生きてきました。そして「相互扶助」はモラルやタブーの遵守により維持されてきたと思われます。そのモラルやタブーは「オキテ」と言い換えることもできますが、それもひとつの「様式」です。「風習」というものもそうです。
生活手段を「様式」化することが、人々が確実に生きて行ける方法だったのです。
「様式」にはセオリーがあり、セオリーを具体化するマニュアルも含まれており、そのマニュアルやセオリーを習得することこそが、「様式」を次世代につなぐ方法でした。
「様式」とは「ムラ」という、地域に根ざした「共同体」により形成され、守られてきましたが、これは定住性により担保されるものです。
この定住性は、実は古く縄文時代にまでさかのぼると推定されるのです。
縄文文化は、実に「様式」化された文化です。しかも豊かに「様式」化された文化です。
ひとつに、縄文土器を見てみると、その立体造形は世界に冠たるものです。そしてある一定の範囲で同じような表現をした土器が出土するのです。例えば東北地方南部の縄文時代前期から中期にかけては、大木(だいぎ)式土器という土器が作られてきました。また縄文時代中期の越後地方では馬高(うまたか)式土器という土器(通称火炎土器)が作られてきました。これはほんの一例ですが、土器の作り方ひとつ取っても「様式」化されています。
仙台市山田上ノ台遺跡出土縄文土器
『仙台市縄文の森広場』にて
縄文時代において、土器は勝手に作るものではなく、「様式」に従って、しきたりや手順を守って作るもののようでした。
高度に「様式」化した土器だけでなく、遺跡から出土する石器や石製品、木製品、土偶などの土製品、貝塚から出土する骨角器なんかも「様式」化しているし、竪穴住居の構造や炉の構造なんかも「様式」化されています。
縄文時代の遺跡から「様式」化された遺物が豊かに出土するということは、縄文文化が高度に「様式」化された文化であることを意味していると思います。
縄文時代の集落(ムラ)を基盤として、縄文土器型式の広がりに象徴される地域文化圏に至るまで「様式」化を可能とした、高度な「共同体」そして「共同体」間の連携が存在したことがうかがわれます。
同じ「様式」を共有する地域文化圏では「共同体」(集落=ムラ)間の情報共有がなされていたと思われます。すなわち、地域社会が存在したものと推定されます。
高度に「様式」化された縄文文化を支えたものは定住性であり、その経済基盤は、豊かな自然環境にあったものと考えられますが、もうひとつ忘れてならないことが「共同体」間、さらには異なる地域社会間の経済交流、すなわち交易ではなかったかと考えています。
安定した経済交流は、互いに安定した社会基盤がないと成立しないと思います。縄文時代には、それだけ安定した社会があり、それを支えていたのが高度に「様式」化された人々の意識構造ではなかったかと考えます。
縄文文化が高度に「様式」化していたということは、縄文時代人の意識構造も、高い割合で「様式」化がなされていたものと考えられます。すなわち縄文時代人のものの考え方は、社会規範に則り、公的思考が個人的思考より優位だったのではないでしょうか。またそれが、縄文文化を維持してきた意識構造だったと思います。
そして「様式」化した縄文文化は、強い個性をも創造いたしました。それが地域文化・地域性です。これは地域風土に根付いたものと思われます。
縄文文化は、世界的に見ても高度な「様式」化を遂げた文化です。
そして、縄文時代に成立した人々の意識構造は、日本人のDNAとして、現代に至るまで、日本人の意識構造の底流として流れてきたものと考えられます。
古寺山自奉楽のビデオを見て感じた「縄文文化」、
それは、日本文化の底流に脈々として伝わってきた「様式」を守る「心」というものでした。
日本考古学においては、縄文文化の「様式」というものをさらに科学的に分析してゆく必要があると思います。
きょうは、こ面倒臭い話になりましたが、
皆さんの心の中に残る、隠れた縄文文化を探してみませんか。
日本人の意識構造の成立過程において、高度に「様式」化された縄文文化は、重要なファクターと考えられますので。
後記
古寺山自奉楽のビデオを見て感じた「縄文文化」について、毎日少しずつ、忘れないように所感をメモしてきましたが、今日は、それをまとめてブログアップしました。
僕の備忘録です。
ただ、今まとめている土偶のお話は、縄文時代観が大事な前提となるので、このことは必要不可欠でした。
後記の追記
う〜〜ん、
忙しくなって、昨日の湯川渓谷で撮った写真の整理、
時間かかりそ〜〜〜、、、