901(延喜元)年、右大臣・
菅原道真が
醍醐天皇によって九州の
大宰府に左遷された。彼の才能を妬む左大臣・
藤原時平は、道真を罪に陥れてやろうと策略し
「道真は国家の政治を私物化している」と
醍醐天皇に何度も
讒言(ざんげん:陰謀でうその証言)した。これにより、天皇も道真のことを逆臣と思いこむようになり、
901年1月20日に菅原道真を
太宰権帥に左遷、筑紫国に流罪とすることとした。
長年住み慣れた自宅の庭に植えられていた
梅が咲いているのを見て
「東風吹かば匂ひ送来せよ梅の花 主無しとて春な忘れそ(春を忘るな)」と詠み、
1月25日に都を旅立った。その梅は菅原邸から太宰府の庭まで飛んで行ってそこに根づいたという
「太宰府の飛梅」の伝説がある。
菅原道真は無念の思いを抱きながら、2年後の
903(延喜3)年2月25日に亡くなった。
58歳であった。
<参照> 「今日は何の日」〜毎日が記念日〜 より
菅原道真と聞いてまず頭に浮かぶのが、
学問の神様だろう。幼少時から学問や詩歌の才能に長けて、若くして国家試験に合格し
博士号を取ったことが後世に伝わっているからだ。
また、
政治家としても活躍をした。
醍醐天皇に重用され、異例の出世で
右大臣にまでのぼりつめたが、それを疎ましく思った左大臣の
藤原時平が菅原道真を陥れようと企み、
大宰権帥に左遷されたのである。
もうひとつ思い出すのが、
894年の
遣唐使の廃止である。
「白紙(894)に戻そう遣唐使」と覚えた方も多いことだろう。歴史の年号語呂合わせの代表的なものだ。
政治家として余すところなく手腕を発揮していたときである。
都を去るとき、道真は
「東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と詠んだ。菅原道真邸の
梅が、主(あるじ)を慕って京都から太宰府に飛んでいったという
「飛び梅」の伝説はあまりにも有名である。道真は、太宰府に赴任して
2年後の延喜3年に
病死した。さぞや無念であったことだろう。
延喜5年、門弟によって道真の墓所に建立されたのが
太宰府天満宮である。
まもなく
人事異動の季節を迎える。いつの時代も
足の引っ張り合いは変わらない。
藤原時平のような人間が必ずいるのだ。
自分の能力のなさをカバーするために、人を陥れて自分を高めようとするわけである。
飛び梅のように
讒言(ざんげん)がまた飛び交うのか。
しかし、道真は
学問の神様だけではなかったのだ。
雷神・祟り神として恐れられたのである。陰謀によって左遷された
怨念は相当なものだったはずだ。
藤原時平は39歳で急死、
皇太子の急逝や宮中への
落雷・天候不順などの
天変地異が起きたという。
人を陥れて地位を得ようとしても、
天の神様が黙って見てはいない。いずれ災難が自分の身に降りかかってくるものと心してよいだろう。これが
「因果応報」というものである。
余談だが、菅原道真は、
菅家(かんけ)、菅公(かんこう)とも呼ばれていた。なるほど
「カンコー(菅公)学生服」はここから着ていた、いや来ていたのか。
「そんなの関係ない」どころか、大いに
菅家ありである。

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