2006年の
1月10日川島廣守氏の
野球殿堂入りが決まった。川島氏は福島県
会津若松市出身で
旧制会津中(現会津高校)から
中央大学法学部へ進み、卒業後
警察庁に入り警備局長などを務めた。出向にて
内閣調査室長、
田中内閣官房副長官等を歴任し、退官後は
鉄建公団総裁となった。1984年に第4代
セントラル・リーグ会長に就任。
14年間リーグ会長を務める。1998年には吉國一郎氏の後を継ぎ、
第10代プロ野球コミッショナーに就任。
2期6年コミッショナー職を務め、
2004年に勇退した。
1988年、日米野球協定の見直しに着手し、
日米球界連絡強化策を打ちだし、2000年3月米
大リーグ開幕戦の日本での開催を実現させた。
2003年には、選抜高校野球の開会式に出席するなど、セ・リーグ会長時代からの
プロ・アマ協調体制を確立し、現役プロ選手と高校球児のシンポジウム
「夢の向こうに」の開催にも尽力した。
2004年には高野連と
「新人選手選択に関する覚書」に調印し、
プロ・アマの垣根の払拭に力を入れた。
セ・リーグ会長14年、コミッショナー2期6年の合計
20年間の長期に亘り、プロ野球界の発展に寄与したことが認められ、
特別表彰で
「野球殿堂入り」となった。
野球界の
ドンと呼ばれる
「ナベツネ」こと
渡邉恒雄・読売新聞社社長と親しい関係にあり、
渡邊氏の強い推薦があり、前例のないリーグ会長からの
横滑りでの
コミッショナー就任となったことは有名である。これが、後に
批判の声を集める大きな
要因でもあった。
昨年ようやくセパ
交流戦が実施されたが、セリーグ会長時代から、交流戦を求める
パ・リーグ各球団や
ファンの声に対して耳を貸さず、
既得権益を守る
セ・リーグ各球団の
利益保全に走ったと批判する声が今も残っている。
その一方で、野球の国際化のために
2000年には一部ながら
シドニーオリンピック野球日本代表にプロ選手を派遣した。また、長い間放置されていた
アマチュア球界との関係修復に力を注いだ。今回の
特別表彰はこのような功績が高く評価されたといえる。
川島氏の歩んできた行動には
賛否両論あるだろうが、
会津が生んだ歴史に残る偉大な著名人であることに偽りはない。ナベツネ氏ほどの
アクの強さは感じられないが、会津人の
白虎魂は存分に発揮してくれたと言っていいだろう。
きょう2月27日川島氏は
84回目の
誕生日を迎えた。
<参照> フリー百科事典「ウィキペディアWikipedia)」

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