2018/5/27

【本】責任という虚構 感想  ふと思いついた事。

小坂井 敏晶 著。


まず、僕の独唱性能の低さを痛感しました。

「完全に眠くない」時間など僕の中では存在しませんが、それでも難しく思える本を読み始めると数分でうとうとします。

子供か!と自分でつっこんでしまう。本当にすぐ寝ます。


しかし、対策として有効なのは「むずかしい!」と思った瞬間に逐一紙にその文章を書き出す、ということ。

「文章フレンド策」と命名しました。人間同じ日本語を使っても質、類が違います。

あまりにかけ離れていると脳の疲労度が高くなりすぐカロリーを消費し眠くなる。

なので少しでも慣れるために写生し、自分の言葉へと落とし込む。

だんだん慣れていき、すらすら読めるようになります。

これが功をそうし、後半は3時間くらい一気に読み通すことができました。



そして、やっとここから感想。

「難しく思える本の文章に慣れる」ことができても、自分の書き出す文章の質が上がるとは限らず。

本書が強く主張しているのは

虚構は人間にとって大切な概念、現実と相互作用をなす。責任は安定的社会秩序に不可欠の概念になっている。

間違うことが許されない大切なのは

「責任は因果律に則っているので果たす必要性がある」
ではなく
「社会秩序のために責任という概念を作り出した」


ということ。


責任を含めた「社会秩序を守ることに機能した概念」=虚構と宣言。

もちろん「貨幣」も虚構の一種。

ある人間を刺してしまった場合、救急車が来るまでに道が混んでいるかどうかで被害者の生死が決まるとすると、本来の意味での責任は加害者ではなくて渋滞を起こした人たち、そして救急車の運転手に帰属してしまう。

しかし実際はそれを考慮されず、全責任を加害者が背負うこととなる。

なぜなら、被害者の家族や親しい人にとって「加害者の全責任」こそが一番納得する帰結だから。

まずい料理が出された時、責任を調理した人に全て押し付けてしまう。


このように、厳密に精査すると責任は拡散されているはずなのに、被害側が「納得できる」ことが重要視される。

そこには本来あるはずがない「自由意志」が発生するから、という一つの解が見受けられる。

自由=責任が伴う、という虚構を常識下において認められており「自由なはずだ」と決めつける。

度々「因果律」というワードが使用されており、ランダムな世界を単純化させる虚構として引用されている。

「自由」は主観性が強く「様々な選択ができる」という見方が強いと発生する。

そしてそこには「因果律」が発生したようにも認識され、責任は当事者のみに帰結する、という了解を欲してしまう。


大発明なんですね、人間に責任を当てはめるというのは。

ホロコーストを行なったナチスは個人の責任を薄めるためにかなり細かな分業制を採用した。

魔女裁判は特定の女性に責任を押し付けることで社会秩序の安定性を図った。


責任は生きている人がこれから健全な精神状態で生き続けるために要する私刑のようなもの。


確信できたのは「責任感が強い」は短所だということ。


魔女裁判では自ら刑を望み、ホロコーストではより虐殺に加担をする。

責任感が強い=自らを生贄としてしまう、個人にとってバイタリティを奪う最悪な概念です。

「連帯責任」がいかに愚かな虚構なのか。

学校で強く言われた概念ですが、これは「先生たちが納得したいから」だけの虚構です。

大人がこどもを犠牲にする概念です。

僕は運動会とか合唱等の学校の催しが嫌いで仕方なく何回かボイコットしました。

その理由を言語化すると「責任を肥大化させ社会的制裁が整えられているから」です。

恐らく多くの人はそれと引き換えに「楽しい思い出」を記憶できるので気にならないんでしょう。

いじめ発生を何よりも恐れていたので、つまりいじめが正当化されてしまう危険性があるので参加したくありませんでした。



いつも通り文章構成を考えずにひたすらタイピングをし続けるという感想記事。

なので、本書を読んだことで変化しまた人生にプラスになったことを簡単に書いて終わりにします。



・責任は他人が納得したいがためのリンチであり虚構としては性能が言い分たちが悪い。

・責任感が強いこどもに育てることは罪深い。比例して親はただ楽して子育てをし自分は立派な人間だと思い込みたい。

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