2018/9/17
努力の定義を変える、楽しんでやったことも努力にする。 ふと思いついた事。
「努力とは、苦しくても続け通したこと」
とかとか。努力には苦行がつきものというのがもはや真実のように語られている。
僕もそうです。「苦しまないと努力じゃない」という考え。
なので、あえて苦しい選択をしたり、楽しくやっていると不安に陥ります。
苦しい選択というのは、精神的に追い込むのも含みます。
ただ問題点があり、それは苦しい=努力となること。
つまり必要十分条件を満たしている、と定義づけている。
苦しい=乗り越えたら成長する、きっとプラスになる、と。
これは見方を変えると「苦行信者」、苦しいことは自分にプラスになると信じ込んでいる。
だが、きっとただ楽しかったことだけでも成長につながっているに違いないです。
でもその場合は自身も、他人から「努力したな。」とか言われて「いやしてないっす。」と断固反対してしまう。
だから、努力の定義を自分の中のみですが変えます。
「過程を経て完成に向かっている途中、また完成」
つまり、どんな行動にも「努力」が含まれているということ。
好きなゲームを購入するためアマゾンでぽちる、これもプレイするための努力です。
努力を特別なものにしない。
空気中に含まれている酸素のような、当たり前だけど観察するとすぐさま発見できる、そんな概念に。
苦しいことが成長するとは限りませんし、退化することも結構あります。
苦しい思いをして乗り越えると考えが固執化、また2度と経験したくないので他人を生贄にしてでも回避したり。
