2019/3/7
行動の抵抗をなくす努力の必要性 ふと思いついた事。
志望校だったり就職先だったり。
あらかじめ心の中で決めていたことを周囲の人に否定され他の進路を提示され。
それで言うことを聞くと「そこまで行きたくなかったんだよ」とか言われ。
僕は「いかに決断の抵抗をなくすか」という努力が直接人生の質を上げる、と確信しています。
人は他人に抵抗を与えたい
なぜかというと「周りを見ている俺カッケー」もありますが「親切心」がほとんど。
なのでやっかいですね。親切心は反故にしてはいけないと教育され実感もしてきたので。
真実ですが、個人は今までもそしてこれからも同一性が担保されないユニークな存在です。
なので自分以外成功したが失敗することだってあります。
いかに自分個人の知見を自分でおし拡げるかが生きること、だと僕は意味付けています。
助言という名の抵抗の存在は、たとえはじめの決断を行動に移したとしてもストレス・ダメージを受けます。
なので余計に疲労したり失敗した時のダメージが大きくなる。
「あの時聞いておけば」という自分を惨めにさせる動機にもなる。
だからこそ、抵抗をなくす努力が必要です。
助言通りに従っておけば成功したことでも、自分の思うがままに行動したことを褒める余裕を残す必要性。
ここで大事なのは「助言に従うべき優位性」を理解しておこと。
「実際やらないと被害がわからないから」と一つのテロリスト集団に対して核ミサイルを使用することに対して「あまりにも周囲への悪影響が強すぎるからやめろ」という助言を聞かない、なんてことは愚かですよね。
つまり「確率の高さ」を見極める能力が同時に必要となる。
しかしこれは本当に難しく、何年も常識として浸透していたことが「実は間違っていた」なんてこともありますし。
「運」という言葉はどうしても使いたくなく、人間性とかセンスとかもあまり使いたくなく。
見極めが人生の質に直結することは明らかですが、やはりその選択時までに「情報と経験の蓄え」がモノを言うのかな、と。
見極められない時は自分に嘘をつかず正直に「あ、ごめん。情報と経験不足でよくわかんね」と白状する。
「いや俺は今までたくさんの経験をしていくども試練を乗り越えてきた・・・。」は危うい。
「精神的タフ」という言葉があります。これは厳しい環境・場面を乗り越えることで自信がつく一方、自分を過大評価しまた他人を同じ目に合わせたい、辛い体験をして弱った相手を見下すマイナスポイントがあります。
「わからない時」は素直に「わからないからやってみっか」でいいんですよ。
「わかろうとするため」に情報を収拾し、それでも失敗をした時は「まだわからないことがあったんだな」と新たな知見を得られる。
「わからない」を怖がることなく掴み取る。その抵抗を減らす努力が大事、という話。
