2021/1/25

自制を意識して「自分がコントロールできる」感覚を初めて知った。  1日まとめ記事


今月から「自制」を意識して生きています。

ここでの自制は「目的達成のための行動を優先して誘惑に耐える」というもの。



人生初めて自制ができている、という実感があります。

幼少期から「自制教育」は受けていて「今欲しいおもちゃ1ヶ月我慢したらもっといいもの買ってあげる」とかゲーム我慢して宿題をする、とか。

でも気づいたんですが自制は「他者」が関与すると消滅するんですよね。

「自粛要請」が日本語として間違っているのと同じで「自制を促す」もおかしいんですよね。




「自分自身で完結」しないと「ただの他者からの命令・提案」でしかない。





「自制の実感」の年齢は低いほど良い、というか3歳くらいまでは本来経験すべきこと。

今までの僕は「なんとなくの自制」でした。

「これに耐えたら良いものがゲットできるはずだ」とかなんていうか、抽象的な感覚で生きてきた。



自制はどこまでも自己中心的で、自分が自分のためにやらないと実感できない。

自制の実感とは、自分をコントロールしている感覚です。

コントロールしている感覚、つまり責任を持つことができ改善・修正ができる。




ただこれは僕が幼少期に指摘された「知的障害者の特性」なんですよね。

ひとりよがり、他者を受け付けずに自己完結しようとする。

そう指摘され続けて自分のことなのに自分で選択・決断することを恐れ、責任が取れない他者に決定権を渡す人間になったのかなと。


自分で何も選べないから他人に全部選んでもらう。これは知的障害じゃないそうです。どんな理屈だよ。



「こどもの頃に家族から知的障害者の扱いをされた」というのは最強だなとつくづく。

何が最強かって、今の自分の嫌いなところと簡単に結びつけられちゃうし、しかももっともらしいし。

原因はそうでも責任は自分しか取れない。原因と責任が一致しないのはよくあること。

本当はそれが原因じゃない可能性があるのに。



親目線からしてもめっちゃ楽ですよね。

「知的障害者」と言われると子はそうじゃないと反論するべく指摘された言動をやめる。

楽な教育です。



今回初めて「あ、自分ってコントロールできるんだ」という感覚のほんの一部に触れられた感じ。

がっつり掴めることができるのだろうか・・・。
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