2021/9/7

「わかりやすくする」が怖い  1日まとめ記事



自分は「わかりやすくする」ことが目的の整理だったり作業が苦手、というか精神的に苦痛を感じる。

この作業自体は好きだけど怖い。


「わかりやすくする」=知的障害者の証明、という歪んだ思想が根付いているから。




数ヶ月前に聞いたラジオで「知的障害・発達障害者への勉強のアプローチは健常者にも役立つ」旨の内容が放送されていた。

知的・発達障害者のために当人達がやりやすいような勉強法を提案、例えば黙々と書き続けるタイプとか声を出して覚えるタイプとかを提示して「どれが自分に合うか」を試させる。


「障害者の勉強法」として健常者である小学生児童に「障害者との触れ合い」という提で体験させてたところ、健常者達にも有効な手法ではないかと気付いた、と。

健常者=全員同じ感覚なわけあらず、それぞれ好き嫌いが異なり合っている勉強法も違う。

ただ「健常者=対応できる人間」という条件があるので在籍中の担任教師の勉強法に「適応」することが「勉強」という思い込みが生じる。


知的・発達障害者は「適応」ができないために数多くのパターンの勉強法を提示させる。



でも経験上恐らく日本人の共通認識だと思うけど、健常者の「適応」は「適応風」であって上位成績優秀者は「独自の自分に合った勉強法を確立している」ことがほとんど。

健常者と障害者の違いは「自分に合ってない」と認識していても「そのままやり通すことができる」かどうか。



知的・発達障害枠から健常者枠に移された経験がある自分にとっては「わかりやすくする」というのは「知的・発達障害者枠へ引きずり戻される」恐怖を思い出してしまう。



精神的安定を求めると「わかりづらい、自分に合わないと自覚しつつ問題を解決しないまま続ける」ことなんですよね。

つまり「自分のやりやすさ」よりも「環境に適応」しているという感覚を欲しているしその方が「有能感」がある。











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