2014/2/14

古典芸能としてのクラシック音楽と、アートとしての現代音楽  音楽
 

■ 「現代音楽」って何? ■

何だかクラシック音楽界を一人のペテン師が騒がしている様ですが、気になるのはとても安い金額でゴーストを請け負っていらした作曲家の方です。

彼は現代音楽の作曲家の様ですが、「現代音楽」ほど一般の人から縁遠いものも珍しいかも知れません。

現代音楽をそのまま翻訳すればコンテンポラリー・ミュージックとなる訳ですが、一般的にコンテンポラリー・ミュージックと称する場合は、ロックやポピュラーミュージックを指す事が多いと思います。

一方「古典音楽」のクラシック・ミュージックの対義語としての「現代音楽」もコンテンポラリ・ミュージックと称されます。

前者は「現代の人々に支持されている」と言う意味でのコンテンポラリーであり、後者は純粋に音楽分類的に「古典」に対する「現代」を意味しています。

■ バッハやモーツアルトはヒットメーカーであり、人気ミュージシャン ■

実はバッハやモーツアルトやベートーベンの時代には、彼らの作品こそがコンテンポラリーミュージックであり、ヒットソングでした。彼らはヒットメーカーとして時代の寵児だったのです。この時代においては彼らの音楽は時代の最先端であり、人々は興奮してその音楽に没頭していました。

当時の作曲家達は自らも演奏者としてステージに上がる事も多く、ヒットメーカーであると同時に人気ミュージッシャンでもありました。

それが少し変質するのはベートーベンからでは無いでしょうか。それまでは、楽しくてノリの良い事が好まれた音楽に、「思想性」や「作家性」を最初に導入したのはベートーベンです。彼は作品に難解で抽象的な解釈を付ける事で、音楽を芸術の領域に祭り上げてしまいました。

一方、リストなどは超絶技巧を売り者にするピアニストとしての顔も捨ててはおらず、ロマン派の時代までは所謂クラシック音楽は当時のポピュラーミュージックとして大衆に支持されていました。

大衆向けの音楽はオペラやオペレッタといった劇音楽から、次第にミュージカルや映画音楽に活躍の場を移して行きます。

■ アートとしての現代音楽 ■

一方、芸術性を重んじる音楽は、だんだんと抽象的になり、大衆から離れて行きます。そしてシェーンベルグが12音階の技法を編み出した頃には、完全に大衆の理解を越えるものになってしまいまいた。

『ドラえもん』の主題歌を12音階で演奏した動画を見つけました。



こんな凄まじい事になってしまうんですね・・・。

こうした「現代音楽」は「無調無階」と称される「不定形の何か」をひたすら追求して行きます。そこには「大衆に支持される」というポピュラリティーの欠片も無く、音の響きのバリエーションを追及する純粋性だけが存在する世界です。

■ ミニマリズムとポピュラリティーの回帰 ■

何だか理解不能なものになってしまった現代音楽ですが、ミニマリズムという反動も生まれて来ます。

現代アートと呼応するミニマリズムは、単純なメロディーやリズムを繰り返す事を特長としています。工業的な単純性や反復性を音楽の世界に反映したものとも言えます。



初期のミニマリズムの音楽は単調で無機質な感じのする音楽でしたが、次第に様々な展開を見せる様になります。上の作品はスティーブ・ライヒの『Different Trains』という作品ですが、サンプリングやボイスを取り入れるなど、単純なだけのミニマリズムとは一線を画す作品となっています。



この作品はイギリスの映画監督ピーター・グリーナウェイの『数に溺れて』のサントラですが、ユーロッパ映画に数々の名サントラを残したマイケル・ナイマンの作曲です。ここでもミニマリズム的な反復が見られますが、その響きは暖かくてとても豊です。



声楽でもミニマリズム的な挑戦が行われます。上の映像はメリディス・モンクのパフォーマンスですが、原始的な力強さと宗教的な崇高さが共存する不思議な世界を作り出しています。

ミニマリズムの音楽運動は、ポピュラーミュージックのテクノサウンドなどと呼応する所、も多く、難解な「現代音楽」を再び大衆の理解出来るアートにした点でポピュラリティーの回帰として評価されるものかも知れません。

■ 古典への回帰 ■

一方、純粋な古典音楽へ回帰しようといする動きも生まれて来ます。エストニアの作曲家アルヴォ・ペルトは「現代音楽」の流れに逆らう様に古典へと傾倒して行きます。



ペルトの初期の作品のアルボス(樹)では、ミニマリズム的な現代性が未だ散見されます。声楽部もメリディス・モンクに共通する響きがあります。



その後、彼は単旋聖歌やグレオリオ聖歌などの古典を徹底的に研究し、現代的な視点から古典を再構築してゆきます。これをバッハのコピーと言う人は居ません。表層的に当時の音楽をコピーしたのでは無く、現代人であるペルトが当時の音楽様式の縛りの中で現代の音楽を紡いでいるからです。

■ 実は現代音楽は身近に溢れている ■

私が「現代音楽」を聞きかじっていたのは20年も前の頃ですから、現在はもっと興味深い作品も多いのでしょう。いずれにしても、「現代音楽」は決してツマラナイ音楽では無く、スリリングでエキサイティングと言っても過言ではありません。

実は現代音楽の成果を私達は日常的に耳にしています。それは映画やアニメのサントラといった映像音楽やCMのバックミュージックです。

上で紹介した様なミニマリズムやポリリズム、和声を上手にコピーするとこんな作品が出来上がったりします。



分類的にはドラムンベースになるのでしょうが、そこに現代音楽の匂いが上手に混じっているのがミソ。



CMも様々な音楽の進化形の宝庫です。

現代音楽の響きはポピュラーソングの中にも溢れています。
尤もロビン・ホルコムはもともと現代音楽畑の人だったような・・・。



奥さんを紹介したので、その旦那も紹介しときます。
ミニマルミュージックとガムランとノイズ系ジャズの融合というキメラミュージック。



狭い古典芸能としてのクラシック音楽の枠の先へ果敢に挑戦する現代音楽は、NYのアンダーグランドシーンやドイツのテクノシーンで当然の如く前衛的なJAZZやROCKと融合して、フリーミュージックという自由の境地を手に入れます。最早ここには音楽を縛る制約は無く、西洋クラシック音楽の長い歴史からも解き放たれています。坂本竜一や矢野顕子は一時期こういった世界に身を置いて刺激的な活動を繰り広げていました。

そして現代の音楽大学で学んだコンポーザーはクラシックという狭い畑の中には留まっている事が出来ません。



現代の鬼才、ジョン・ゾーンもその一人。でも上の映像、ジョンは何をやっているのでしょうか???多分、ゲーム・セオリー・ミュージックのバリエーションの一つで、「指揮法」の一つの実験なのでしょう。

脱線ついでにマーク・ドレッサーの名人芸も紹介しておきます。クラシックミュージックの世界からスピンアウトした人達は、自由に演奏の幅を広げて行きます。彼も又、現代音楽の作曲家の一人です。




■ コピーこそが創作の本質になりつつある現代 ■

現代の音楽シーンにおいてオリジナルは大して重要な意味を持ちません。何故ならメロディーもリズムもコード進行もある程度出尽くした現代において、作曲家が何か作品を作れば、必ずどこかで聞いた事のある様な曲が出来上がってしまうからです。

それを回避していると、「現代音楽」が陥った様な「不定形な音楽」に行き付いてしまったりする訳ですが、一方それは不定形が故に差別化すらも不能な作品群を生み出す結果になりました。

これは何も現代音楽に限った事では無く、JAZZにしてもフリージャズは素人の耳にはどれも同じ様に聞こえますし、ノイズミュージックやフリーミュージックと呼ばれるジャンルのただの騒音に過ぎないとも言えます。

それならば、思い切りコピーしてしまえば良いじゃないと開き直ったのがサンプリングであったりDJプレーなのかも知れません。

一方、短時間に大量の楽曲を作曲する必要がある劇音楽では、コピーは一つの常套手段となっています。あの映画のこんな感じのシーンにしたいと言えば、オリジナルの音楽もコピーしてしまいます。その方がより端的にオリジナルの世界を外挿する事が出来るからです。

こうして劇音楽(サントラ)の世界では、盗作にならない範囲でのコピーが日常手的に行われています。

■ コピーされ消費される音楽の価値 ■

劇音楽の世界は、クラシックからハードロック、JAZZ、ノイズ、現代音楽を縦横に横断しながらエキサイティングな音楽が日々生まれては消費されて行きます。

これらの音楽は、クラシック音楽の世界では決して評価される事はありません。なぜならそれはあくまでもコピーとそのバリエーションであって、「創造」では無いとされるからです。

スターウォーズのジョー・ウイリアムスの壮大な管弦楽曲も、ディズニーのアラン・メンケンのカラフルでメロディアスな楽曲も、クラシック音楽界では過去の音楽のコピーとそのバリエーションとして全く評価されない事は当然の事なのです。

■ 無価値な物を持ち上げてしまったクラシック業界の大罪 ■

『HIROSHIMA』はマーラーやショスタコービッチなど後期ロマン派の良く出来たコピーです。これが、映画音楽ならば何ら問題はありませんでした。

しかし、現代において古典音楽を作曲する事に何ら意味を見出していないクラシック音楽界が、今回に限って、「ベートーベンの再来」と持ち上げてしまいました。そして、原発事故の波及効果もありますが、現代のクラシック曲としては異例のセールスを記録してしまいました。

指揮者は「魂の奥底に響く素晴らしい曲だ」と絶賛し、レコード会社もキャンペーンを張ってセールスに務めました。しかし、この曲がマーラーなどのコピーで現代的な価値の無い事は彼ら自身が一番知っていたはずです。

■ ゴーストに踊らされたゴースト達 ■

一部のクラシック音楽ファンは、クラシック音楽が高尚なものとして、ポピュラーミュージックを軽んじます。そしてその多くがクラシック音楽の進化系である現代音楽には見向きもしません。

彼らは「印象派絵画展」に足を運ぶ人達と同様に、100年前、200年前に作曲された古典は理解出来ますが、コンテンポラリー・アートには興味を示しません。

そんな人が、街角のギャラリーの前で綺麗なお姉さんに呼び止められ、クリスチャン・ラッセンのイルカの絵を高いお金で買わされてしまった・・・「今人気のアーティストさんで、世界的にも著名な作家ですから、今後、価値が上がりますよ」って言われて・・・。今回のクラシック音楽を巡る一連の騒動はこんな事なのかもしれません。

巷には映像音楽や現代音楽やフリーミュージックなどエキサイティングな音楽が日々生まれています。しかし、そんな事には興味を示さず、閉ざされたコンサートホールの中で過去の音楽のゴーストを追い求める人達が、ゴーストライターに騙されたのが今回の事件の顛末です。

現代音楽の作曲家として不遇な境遇にある代作家は、自分のコピー音楽を人々が有り難く拝聴している様を複雑な心境で眺めていた事でしょう。そして、今回ゴーストライターとして名乗り出た事で、閉鎖的で欺瞞に満ちたクラシック音楽界にカウンターパンチを浴びせたのでしょう。きっと、彼は清々しい気分でインタビューに応じている事でしょう。



・・・エキサイティングな「現代音楽」を聴く度に、貧しいながらもこういう音楽を志す多くの人の存在を思わずにはいられません。そして、彼らの多くが劇音楽の世界に流れて来る事を、私はありがたく思っています。






<追記>

・・・・とまあ、『HIROSHIMA』の存在すら知らなかった私は、後だしジャンケンでエラそうな事が書ける訳で、これがこの作品を絶賛でもしていたら今頃は・・・。

そういう私も、菅野よう子の最近の八面六臂の活躍には少々ヒヤヒヤしています。あまりにも多岐に渡る作風に、実は「菅野よう子」はプロジェクトの名前でした・・・なんてオチがあるのでは無いかと・・・。

NHKの朝の連ドラのサントラも素晴らしいですね。「菅野よう子はコピーだコピーだ」と言わる続けてきましたが、とうとうNHKが頭を下げて作曲依頼する先生になってしまいました。今回の仕事を受けるか1年間近く保留していたらしいのですが、ウィーン録音ならという条件を付けて引き受けたとか。「N響じゃイヤ!!」と言うに等しい。

確かにサントラは素晴らしいのですが・・・ドラマの演出はそれを全く生かしていません。本来、実写作品には控えめな音を付ける菅野が、耳に残る音楽を書いている当たり、今回は確信犯的にドラマを無視してますね。ウォーンでレコーディング出来れば、後はどうでもイイヤって感じがビンビンします。

菅野よう子の価値は、クライアントの要求以上の楽曲を提案する事で、決して自分の作家性を前面に押し出す事では無かったハズ・・・名声を得た事で人は少しずつ変わって行くのかも知れません。
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