2011/7/16

遊びとしての文学・・・西尾維新・「化物語」  
 

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■ 「ライトノベルの文化的位置付け ■

ライトノベルは中高生が読むものと思われています。
確かに大人が電車の中でライトノベルを読みふける姿は、
ほとんど見ることが出来ません。

かつては、電車の中で大人がマンガを読む事は恥ずかしい行為でした。
現在は子供よりも大人が車中でマンガを読む姿を見かける方が多くなりました。
子供達は携帯電話を操作しているか、
DSやPSPでゲームをしている事の方が多いようです。

マンガやゲームは文化として市民権を得ていますが、
ライトノベルが文化としての市民権を得るには未だ時間が掛かるようです。

■ 古典を読めない子供と、ライトノベルを読めない大人 ■

西尾維新の「化物語シリーズ」の一冊、
「偽物語」の中でこの様な会話が為されています。

「子供が古典小説を読めないのと、
 大人がライトノベルを読めないのは、同じかもしれない」

そう、大人はライトノベルをバカにしているから読めないのでは無く、
ライトノベルを読む能力が欠如しているのです。

同様に一般的な現代の子供達には、古典小説を読む能力が欠如しています。


■ ビジュアルイメージが実写かアニメか ■

大人が小説を読む時に、脳内に喚起されるイメージは「実写」でしょう。
一方、子供がライトノベルを読む際にイメージする映像は「アニメ」です。

例えば「チームバチスタの栄光」をアニメで想起する大人は居ないはずです。
「涼宮ハルヒの憂鬱」を、実写で想起する子供も皆無でしょう。

ライトノベルの表紙はアニメ絵で、挿絵もアニメ調です。
ですからライトノベルを読む上で、
既に実写的イメージはブロックされています。

言うなれば、ライトノベルの中身と挿絵は不可分な存在です。

■ 急激に薄れつつつある境界 ■

かつて明確に存在した「ライトノベル」と「小説」の境界が
現在急激に薄れつつあります。

現在、書店に並ぶ「大人向けの小説」の表紙に
アニメ絵が使われる事が多くなりました。
これは、「ライトノベル世代」に一般小説を買わせる
出版社の作戦として始まりました、

さらに一般的には「大人向け小説」と思われている作品も、
ライトノベルの影響を無視できなくなっています。

先述の「チームバチスタの栄光」の白鳥のキャラ設定などは、
明らかにライトノベルの乗りで書かれています。
私には彼を実写でイメージする事が出来ません。
彼の言動は、従来の小説の作法からは逸脱するものに思えます。

同じシリーズの「ナイチンゲールの沈黙」はさらにライトノベル的です。
「歌による共感現象で映像を見せる能力」などはSF的設定で
従来の小説では敬遠されるはずですが、作者は躊躇無くそれを採用しています。

「異能」の存在は、極めてライトノベル的設定と言えます。

■ 京極堂シリーズこそ、大人版ライトノベル ■

京極夏彦の「京極堂シリーズ」はエンタテーメントとして最高の出来栄えです。
しかし、その構造は実は極めてライトノベル的です。(ファンに怒られますが)

その証拠に、「姑獲鳥の夏」も「魍魎の箱」も実写映画は極めて駄作です。
ところが「魍魎の箱」のTVアニメは非常に素晴らしい出来です。

京極堂や、薔薇十字探偵社の榎木津は小説のキャラクターとしては
エッジが立ちすぎています。
特に榎木津の「異能」はライトノベル的設定です。

■ 知識の奔流としてのライトノベル ■

ライトノベルの一つの特徴として「異能」の他に
アンバランスな情報量があります。

一部の作家は自分の興味や知識を登場人物の口を通して
滔々と語らせます。

京極堂も凡そ知らない事は無い思われる程の知識の持ち主です。
そして京極堂を通して、京極夏彦は自身の知識を誇し気に開陳します。

「姑獲鳥の夏」では量子力学と認識論
「魍魎の箱」では幻想小説
「狂骨の夢」では真言立川派
「鉄鼠の檻」では禅宗

京極夏彦は興味を抱いた事象を徹底的に調べ、
その知識を京極堂の口を通して披露する事を喜びとしている様です。
これは、ライトノベルの一部の作家達に共通するメンテリティーです。

さすがに京極堂シリーズは作品の世界感と情報開示を高い次元で融合し、
さらには推理小説本来のトリックも織り込むというウルトラC小説ですが、
その根本的な創作意欲は、「知識を披露したい」という個人的欲求にあるようです。

■ 京極堂のライトノベル版、「化物語」 ■

ようやく本日の主題の西尾維新に辿りつきます。

西尾維新の「化物語」は妖怪(怪異)がテーマの小説です。
怪異とは存在するし、存在しない者として描かれます。
社会が、あるいは個人が作り出す幻想でありながら
確固とした影響を持つ存在・・・。

「世の中には、不思議なことなど何もないのだよ」

これは京極堂が作品の中で繰り返してきた口癖です。
「不思議」とは社会や個人による幻想なのだと陰陽師は看破します。
「化物語」の怪異の解釈は、これを踏襲しています・・・というかパクリです。

「何でもは知らないわよ、知っていることだけ」

これは「化物語」の主要登場人物の一人「羽川翼」の口癖です。
不思議とは「知らないこと」であり、
「知っていれば」不思議は存在しないのです。

この様に、ライトノベルである「化物語」は、
京極堂シリーズの中高生向けコピーと思われがちです。

■ 趣味の二次作品としての「化物語」 ■

確かに「化物語」の着想の原点は「京極堂シリーズ」でしょう。
作者の西尾維新は、この作品を個人の趣味として執筆し、
一般に公開するつもりは無かったと言っています。

多分、京極堂シリーズのパロディーとして、
個人の楽しみとして書かれた作品なのでしょう。

同人誌でアニメの二次作品を楽しむ事と同様の作品なのでしょう。

しかし、出来が良かったので出版され、そしてヒットしてしまった。

・・・これには作者も戸惑いがある様で、
勝手に書いた「化物語」と「傷物語」はクォリティーの高い作品ですが、
続編として出版社が企画した「偽物語」以降は、
作者は積極的に作品世界を破壊し、
人気キャラクターや主人公達のイメージを徹底的に壊していきます。

個人的趣味で作ったキャラクターが、
多くの若者達に共有される事に我慢出来なかったのでしょう。

■ 無限の自由を手にしたライトノベル ■

西尾維新は。「偽物語」以降は自主的な創作の動機を失っています。
出版社のリクエストで書かれた作品です。

当然、作品おクォリティーは低下するのですが、
ところが、その投げやりな態度が、
今まで読んだ事もも無いようなジャンルを世の中に生み出してしまいました。

一般的に作品中の人物は、作品世界の外を認識する事は出来ません。
それは小説というジャンルが守るべきルールの一つです。

しかしポストモダンの小説の登場人物達は、
作品世界の外枠を認識する能力を獲得します。
これは「メタフィクション」とか「メタ構造」と呼ばれます。

「簡単に言ってしまえば「ヤッターマン」でボヤッキーが
「全国の女子高生諸君!!」とブラウン管から語り掛けた事を
小説家がやってしまっただけとも言えます。

「偽物語」以降の西尾維新は、このメタ構造のオンパレードです。
作中の人物がアニメ化に言及し、
作者の諦観をダラダラと語り、
ロリコン的展開には、「石原知事に怒られるぞ」と突っ込む。

既にここには「小説」として作中と現実を隔てる壁は存在しません。
友達同士の日常的な会話が、作品の枠を超えて現実世界に流れ出してきます。
西尾維新は「ノーフレーム小説」とも言える新ジャンルを作り出してしまいました。

ポストモダンの小説にも、
キャシー・アッカーの「血みどろ臓物ハイスクール」の様な
パンク小説と呼ばれる異端小説の分野がありますが、
それが読んでいて楽しいかと言われれば、
前衛作品独特の「つまらなさ」を覚えざるを得ません。

ところが、西尾維新は小説という構造をここまで徹底的に破壊しながらも
それをしっかりエンタテーメントとして成立させています。
これこそが、日本のオタク文化の強度だとも言えます。

■ ゲームとしての小説 ■

「化物語」シリーズは、ほとんど会話でストーリーが展開してゆきます。
一人称文学は、主人公の視点で世界が描かれますから、
「会話」によって、作品を描き切る事が容易なジャンルですが、
西尾維新にいたっては、職人的な手際でそれをこなしています。

多分、西尾維新はギャルゲーをプレーする感覚で執筆しているはずです。

次はこの女の子に何と言わせよう?
次はどんなイベントを用意しよう?
このフラグは何処で回収しよう?

まったくもって登場人物達が「フラグを立てる」や「そんなイベントはいらない」
なんて言ってしまう事からして、既に文字で書かれたゲーム状態です。

さらには、攻略されたキャラクターは「デレ」ます。
攻略してしまえば、作者はそのキャラクターに興味を失ってしまうのです。

■ 消費としての文学の最終形態 ■

ほとんどギャルゲー状態の西尾維新作品に比べれば
谷川流の「涼宮ハルヒ」シリーズは、古典的で保守的です。

若者の文字離れが言われて久しいですが、
ライトノベルは売れています。
それは、戦略的にこのジャンルが読者のニーズに応えてきた結果です。

読者の望む「女の子」を提供し、
読者の望む「イベント」や「ストーリー」を提供してきました。

そして「読者皆の宝物」である登場人物の「女の子」は、
決してSEXなんてしません。(子供向け小説だから当然か・・・)

そう、ライトノベルは究極のインタラクティブ構造を創出したのです。

■ プラットフォームの共有が不可欠 ■

「ライトノベルは大人には読めません」


同じ文化的土壌の共有は無くしては楽しむ事が出来ないのです。
「ノンフレーム小説」であっても、プラットフォームの統一は不可欠です。

かつてMACのソフトがWINDOWSで使えなかった様に、
オタク文化というOS無くしては、西尾作品は楽しめないのです。


■ 西尾維新の作家としての力量 ■

こう書いてくると、ライトノベルの作家はレベルが低いと思われるでしょう。

桜庭一樹、有川浩、乙一・・・今をときめく作家達はライトノベル出身です。
乙一は違うだろうというご指摘もありあそうですが、
彼はデビュー当時、「スレイヤーズ」(ライトノベル)しか読んだ事が無かったそうです。

西尾維新の実力はどうかと言えば、
彼は天才の部類に属します。

ポップで薄っぺらな登場人物が
一瞬でシリアスモードに突入し
深遠な思索を披露します。

現代の人気作家達が1冊掛けて作り出す価値観を、
1ページで作り出します。

世界の深遠を覗くような洞察を、一言でさらりとこなします。

その読書量や知識量は想像を絶するものがあります。

ただ、彼は「自分の遊びとして小説を書く事」にしか興味が無いようです。

プラットフォームを違える一般小説の分野では
彼の作品が成立しない事にも自覚的です。

■ 読者に課せられるハードル ■

世界的な最重要作家の一人とも言える西尾維新を大人が楽しむ為には、
オタク文化の習得という、高いハードルを越える事が必要です。

電車の中でライトノベルを平気で読める私は、
既に、このハードルをクリアーしています。

・・・って単なるオタク・オヤジなんだけど・・。




<追記>

近代文学はリアリティーの追求にその存在意義を求めてきました。
登場人物や情景の描写が現実的で、
かつ洗練されている事が良しとされてきました。

しかし、神話をも含めた文学の歴史の中では、
近代文学とて、一つのジャンルに過ぎません。

「本を読む」と「勉強する」がイコールで結ばれる様な狭量の社会では、
ライトノベルは子供世代のサブカルチャー的地位に縛られえてしまいます。

しかし西尾維新が得意とする言葉遊びは、
万葉の時代から日本人が好んで行ってきた知的遊戯であり、
眉ねに皺を寄せながら読むような、社会派の小説よりも
日本文学の伝統に忠実であるとも言えます。

実際にリアリティーを価値基準とする近代・現代文学は閉塞しており
80年代以降のポストモダンの流れの中では
様々な再構築やクロスオーバーが試みられてきました。

南米幻想小説の一群の作家がフューチャーされたり、
スティブン・エリクソンやスティーブン・ミルハウザーの様な
「マジック・リアリズム」と呼ばれる作家達が注目されたりしました。

しかし、それらは皆、自家中毒的な閉塞性に取り込まれいます。

ライトノベルの作家達は、文学の歴史など知らない若者達がほとんどです。
しかし、本が好きで、積み上げて乱読する様な若者が少なくありません。

彼らオタク世代の作家達の理想の世界は、
アニメなどの中にあり、
彼らは、その創作において、彼らなりの理想郷を追求します。

その作品の殆どが、駄作以外の何者でもありませんが、
西尾維新や那須きのこなど、
水準を遥かに超える作家を輩出する豊かな土壌をライトノベルは提供しています。

彼らにとってのリアリズムとは、作品に注す影の様な存在で、
人物や情景が薄っぺらにならない様に振り掛けるスパイスでしかありません。

これは日本のアニメが得意とする手法で、
ホロっとさせる台詞を入れる事で、
ギャグアニメでも妙に深遠な世界感を有している様な錯覚を与えます。

西尾維新の作品は、全くもって言葉遊び以外の何者でも無いのですが、
彼もリアリティーというレトリックを巧みに利用する術を身に付けています。



8

2016/3/23  13:13

投稿者:人力
たんこ さん

面白いテーマだったので、最新の記事にしてみました。も
しよろしければ覗いてみて下さい。

2016/3/20  20:14

投稿者:たんこ
人力さん、コメありがとうございます!ダラダラと書いたまとまりのないコメなのに喜んで?頂けた…のでしょうか、な、なんだか不安になってきちゃった(汗笑)とどのつまりは面白さを理解できない、頭の悪い自分を露呈してしまっただけのようでちょっと恥ずかしいのですが、ぜひご返答を拝読できたら幸いです!ありがとうございます。義理の息子にバカにされないような、仲良くできるような、お知恵を拝借できればいいのですが 滝汗

2016/3/20  18:29

投稿者:人力
たんこ さん

返事が遅くなりました。自転車で峠を登っていたもので
すから。

たんこさんのコメントは、私には一番嬉しい部類です。
ブロガー冥利に尽きます。いい加減なお返事は書けない
ので、ちょっと考えが纏まったらお返事するか、新しい
記事で取り上げさせて頂きます。

2016/3/20  15:21

投稿者:たんこ
たびたびすみません!
コメさせていただいたあと、もう一度人力さんのブログを拝読して、やはり私の頭が古いのかなぁと思いました。留学生は素晴らしく頭がいい子で、日本語の読み書きしゃべりもほぼ完ぺきなので、日本人とか外国人の枠を超えて西尾維新さんの世界を理解して楽しむことができるんだろうなと思いました。私としては、須賀敦子のような文章にも触れてほしいなあと思ったのですが、おばさんの感傷かな(苦笑) ダンナとの趣味の違いはもはや問題にもならないのですが、義理ではあってもカワイイ息子の趣味になんとかついていきたいけどいけないという母の歯ぎしりなのかもしれませんね。
でも西尾維新さんの文章をチラ見すると、それこそ赤川次郎なんかをクラスみんなで回し読みしたころなんかを思い出してしまいます。懐かしいです。
人力さんのコメ欄で独り言のようにくどくど書いてしまってすみませんでした!

2016/3/20  10:04

投稿者:たんこ
初めまして、突然申し訳ありません。ご相談させてください。私は42歳のフツーの主婦で、好きな作家は須賀敦子、向田邦子、江国香織など。読むけどなかなか中まで入れないのに村上春樹。いちおう国文を卒業しています。以前アメリカ人留学生をホームステイで受け入れたのですが、日本文学が好きで村上春樹が好きというので受け入れたら、一番好きなのは化物語だ、村上春樹はもうそうでもない、というのでちょっと見てみたのですが全然理解できません。留学生は面白さとすばらしさについて力説するのですが、無理やり読ませた江国香織は全然面白くないようです。留学生は日本人なのになぜ化物語を面白がらないのかという感じだし、こちらは村上春樹が好きだというから受け入れたらもしやアニオタなのか?とお互いに不満や疑問があるようなのですが、どうしたらいいでしょうか。化物語の原作をちらっと見ても、私が中学時代に読んだバンパイアハンターDやなんて素敵にジャパネスクを思い出しこそすれ、全然読み進める気になれません。人力さんのこちらの投稿を拝見し、ちょっとわかった気がしました。やはりもはや思考がおばさん過ぎてついていけないとあきらめていいのでしょうか。それとも頑張って日本人主婦の気概を見せるべきでしょうか。ラノベというくくりをすべきでない、と留学生は言いますしそれはよくわかるのですが、やっぱりおばさんはあの絵や独特の文章についていけません。ほんとに困ってます。ちなみに私には中学生の息子がいます。彼は東京ぐーるにはまっていますがこれまた一切理解できません。本当の息子だと逆にどうでもいいと思えるんですが義理の息子だとなんだか割り切れず。どうか助言をお願いいたします。できれば私も化物語の面白さを理解したいとは思うんですが。

2011/7/17  16:39

投稿者:人力
鍛冶屋さん

アハハ!!
私、小学校の頃、死ね死ね団の「M作戦」が理解出来なくて悩みました。「何で偽札ばら撒くとアンパンが1個500円とか、キャベツが半分で1000円とかになったゆんだろう?」って。

今見たら、笑えない話だったんですね。

でも、死ね死ね団の怪人が、電気を食べてる姿を見たら、やっぱり大笑いしちゃうんだと思います。これが、本当に美味しそうに食べるんだから。

2011/7/17  10:46

投稿者:鍛冶屋
ミドルオタク恐るべし!・・・着いて行けないですよぉ^^;)。

ちょっと方向性は違いますが、70年代ヒーローモノでの最強の悪
"死ね死ね団"がいまだに怖いです。
特に、精巧な偽札を大量にばら撒き、日本をハイパーインフレに
した"M作戦"には子供ながら驚愕しました。たしか、人工地震で
国土を壊滅させようとしたりもしましたっけ・・・。ひょっとして、現代
日本のこの状況はリアル"死ね死ね団"の計画だったりして・・・っと、
人力さんのおかげ(?)で"陰謀"に過敏になっています。

そうそう、M作戦の結末は総理大臣の英断による食料無慮配給で
日本は危機を脱するんでしたよね。海の向こうの死ね死団に阿る
ばかりの乾燥瓜に、爪の垢を煎じてやりたい。

2011/7/17  7:57

投稿者:人力
鍛冶屋 さん

ライトノベルは私達の時代の、「朝日ソノラマ」みたいな存在ですね。高千穂遥の「ダーティーペアー」シリーズや「クラッシャー・ジョー」、菊池秀行の「吸血鬼ハンターD」などが代表的な例です。

「ダーティペアー」や「クラシャージョー」の挿絵は「安彦良和」。「吸血鬼ハンターD」の挿絵は「天野喜孝」と、今思えば大変贅沢な挿絵でした。

「安彦良和」はご存知ガンダムの原画監督で、今では野心的な歴史マンガの大家です。

「天野喜孝」はガッチャマンの原画ですね。当時からスタイリッシュでダントツに格好良い絵でした。現代は現代アートの売れっ子としてニューヨークでも人気です。

ハルヒシリーズ、随分と一気に読破されましたね。あれって、読み出すと止まらないですよね。さすがに「分裂」は子供達には辛かったようですが・・。タイムパラドクスの謎解きが、頭の体操にも良いでしょ!!

ダンバインはやはり「古さ」を感じますね。バンダイの子供向けアニメの枠での放送でしたので対象年齢も低めです。

しかし、日本のおけるヒロイック・ファンタジーの最初の本格的作品で、それをロボットアニメと融合した革新的な作品です。

メカデザインが秀逸で出渕裕が担当しています。私はダンバインのデザインは、今見ても鼻血が出そうになります。

子供向けの作品ですが、富野自身はバイストンウェルを舞台にしたこの作品に大変な思いいれがある様で、最近まで、繰り返しOVAなどで作品を発表し続けています。

この時代の富野はガンダム、イデオン、ダンバインととにかく神が掛かっている作品を連発しています。ガンダムはリアルロボットというジャンルを確立した歴史的名作。イデオンはハードSFの本質に迫り、アーサー・C・クラークなどと比べても遜色が無い作品。ダンバインは一ランク落ちますが、これら3作品の中で一番、人間のドロドロの情念に迫る作品です。

イデオンとダンバインのキャラクターデザインは湖川 友謙で、この2作品のデザインはアメコミ的なアクの強い絵ですが、この時代の彼の絵の強さが、現代のアニメに残されていない事が残念でなりません

下に続く↓

2011/7/17  7:52

投稿者:人力
鍛冶屋さん 

ついでにちょっとトリビアを・・・。


「ヒロイック・ファンタジー」の原点は手塚治の「海のトリトン」ですが、原作は本当に駄作です。

しかしTVシリーズは永遠の名作で、内容も原作とは全然異なります。TV版海のトリトンの監督は、実は富野でした。この作品において既に富野らしいテーマは出揃っていて、「擬似家族の結束」や、「正義と悪の逆転」が描かれています。特に最終回のトリトン族が実は海の平和を乱す悪であったという結末はショッキングで、小学生であった私の心を鷲掴みにしました。多分、この作品が私にオタクへの道を歩ませたのでしょう。

富野はその後も「ザンボット3」で正義と悪の逆転を描いていますが、この最終回も論争を巻き起こしています。当時、アニメージュが発刊されたり、日本の「おたく文化」の基礎が形成される時代で、富野のインモラルなテーマが、大学生を中心に支持を受け始めます。

そしてその流れがガンダムブームへと繋がって行きます。

オリジナルガンダムは、大学生達には受け入れられましたが、子供には理解出来ないのでオモチャが売れず、途中打ち切りとなっています。そのおかげで劇場版3部作が公開となったので、これは不幸中の幸いとも言えます。

イデオンもオモチャが売れずに、最終話を前に突然の打ち切り。こちらも劇場場2部作で公開されますが、第一部の「接触編」はTV版を荒く編集しただけの内容です。ところが「発動編」はTV版の最終数話を、映画版に拡大した内容で、ひたすら宇宙規模の殺戮が繰り返されます。主要人物達が頭は飛ぶは、顔は打たれるは・・・とにかく「皆殺しの富野」の通り名は、この作品で確立したと言えます。

エヴァンゲリオンがTV版で物語の収束を放棄して、劇場版でケリを付けた背景には、イデオンの存在が強く意識されています。

SFファン的にはガンダムなんて生ぬるく、やはりイデオンが最高の富野作品だと思います。これは、全50話を見なければ、価値が分からないという、困った作品です。

子供向けのアニメの時間枠で、こんな情念ドロドロの作品が放映されていた当時は、本当に規制が弱かったのだと実感します。今だったら、「魔法少女まぎか」などは深夜帯で無ければ、完全に放送コードに引っ掛ってしまいます。

・・・イカン、イカン、オタクが暴走してしまいました。

2011/7/17  7:10

投稿者:人力
m さん

そう、マンガはかなり革新的です。
赤塚不二夫なんて、かなり前衛でしたよね。

「白鳥」、太田ですか。痩せていて、アクの強い所は確かに似合うかも。

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