「下肥」の風
「日本の農耕を支えた肥料」
風薫る皐月の季節に「下肥」の話しなどを持ち出し、「恐縮至極」に思います。
何しろ、「下肥」と言えば、日本の伝統的な「肥料」として、「厩肥え(まやごえ)」とともに、日本の古代からの「農耕文化」を守って来たものです。「鎮魂」のためにも、その「使い按配」などを書き留めて置きたいと思った次第です。
少年の一時期に「祖父」のところでお世話になったものです。同じ年恰好の「従兄弟」が「三人」集まったものですから、何かと共同での作業がありました。
そんな中に「秋ダイコン」の「種まき作業」がありました。
「稗」もそうですが「ダイコン」も「下肥」との相性が良く、「下肥」なしには「ダイコン」の良いものが取れなかったと思うほどでした。ただし、お断りしておきますが、「下肥」は、これ以上の「腐熟」が無い、といったところまで「完全に腐熟」したものを使っての話しです。
ですから「下肥」は「黒々」と光輝き、あたかも「黒い漆」のような感触をしていました。勿論のことですが、「匂い」などほとんど感じられ無い代物でした。
ダイコンの種まきは「子供達」の仕事でした、「ふわふわ」の土を盛り上げて「畝」が作られていました。太くて長いダイコンを作るためには、「高い畝」が必要でした。
この畝に「三人」の少年が「整列」します。
先頭に立つものは「先が丸みを帯びた丸太」を持ちます、二人目の少年は「肥え桶」を持ちます、三人めの少年は、「ダイコンの種」を持ちます。一人目の少年が「手に持った丸太」で「畝」の山頂に「丸い穴」をあけます。
二人目の少年が、手で「下肥」を掬い取り、穴をめがけて勢い良く投げつけます。下肥は綺麗に穴の中に入ります。
三人目の少年は、「下肥」に「土をかけ」そのすぐわきに、「筋」を作り、種を蒔きます。
このようにして作られた「ダイコン」は、晩秋になると「たくあん用」や「漬物」に加工され、春まで食べられたり、さらに、「下肥」を頂いたところに「お礼」として届けられたものでした。
この「下肥」が「クスリ」になったと言う話を聞いたことがあります。
昔のことですが、時々、「腸チフス」や「赤痢」などの伝染病が流行したようです。
このような時に、「下肥」の「肥溜め」に溜まった液体を「勇気を出して飲んだものだけが助かった」ということです。人によっては、「肥溜め」に「竹の筒」を入れておき、「この中に浸透して溜まった水分を飲んだ」と言う人もいました。
「微生物」の観点からは「理にかなったもの」と思われたものでした。腐熟の過程で「いろいろな微生物」が繁殖し、「他の微生物の増殖」を抑えたり、中には、「人間の健康に良くない毒物」も存在したかも知れませんが、総体的には「抗生物質」としての効果のある物質も含まれていた可能性があるからです。
「下肥」が使われなくなったのは、アメリカの兵隊さんが進駐してからのことです。どうしても、「葉物の野菜」の「付け根」の辺りには、「回虫」などの「寄生虫」の「タマゴ」が付着しやすく、「未熟」な「下肥」をかけ手育てた「野菜」を通しての感染が多かったからです。
このため、アメリカの兵隊さんは「日本の野菜」を口にしませんでした。
子供の心にも「下肥」を使う「日本の農業」を「恥ずかしいこと」と思ったものです。

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