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2011/3/27

実業家としてのピーター・バウマン  タンジェリン・ドリーム

1976年、タンジェリン・ドリームは名盤”STRATOSFEAR”を出した頃から、ピーター・バウマンは自己のレコーディング・スタジオの建設に着手するようになった。
”STRATOSFEAR”の製作に膨大な費用がかかったので、メンバーの誰もが自分のスタジオを持つことを希望するようになったのである。

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バウマンが彼のパラゴン・スタジオを造った時、フローゼとフランケは、
「これでやっと、時間と金のことを気にせずにアルバムの製作に没頭できる。」
と考えたようだが、バウマンの答えは違った。
「このスタジオを造るのにかなりお金がかかったわけだから、他のミュージシャンにも利用してもらうことによって元手を取り、これから先も商売として活用していきたい。」
ということであった。
このような意見の食い違いとバウマンがソロ・ミュージシャンとしてやっていきたい、という気持ちもあって、結局、'77年にバウマンはグループから脱退するのである。
こうしてバウマンのソロ・ミュージシャンやスタジオ経営者としての人生が始まった。
バウマンは音楽家の父と女優の母の間に1953年ベルリンで生まれたが、ユダヤ系のためか金銭感覚に長けていたようである。
ソロ第1作”ROMANCE’76”から第2作”TRANS HARMONIC NIGHTS(1979)”までの間、バウマンはクラスターやコンラッド・シュニッツラー等のアルバムのプロデュースを手がけていた。

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(クラスターのハンス・ヨアヒム・レデリウスと共に)

「自分の作品を世に出すだけでなく、他のミュージシャンをプロデュースすることにも興味を持ったからね。」
しかし、これらの作品は一部の熱狂的なファンをうならせるものの、なかなかメジャーなヒットまではいかなかった。
バウマンはこの状態でやっていくことにある種の限界を感じたようだった。
「自分なりに新しい音楽を追求してきたつもりだったが、だんだん先が見えてきたんだよね。
今のリスナーは生楽器とシンセのセッション、前衛的な電子音楽、ポップスと好きな時に様々な音楽を聴くことができる。
だけど所詮、自分達がやってきたものはそうした中のごく一部にすぎないということがわかってきた。」
そして、
「ヨーロッパに留まってマイナーなミュージシャンと仕事をし続けても、先が見えてる。
ここらで新天地を求めてみよう。」
と、ベルリンのスタジオを売却し、アメリカへ移ったのである。
このように今迄築き上げてきたものを惜しげもなく手放し、流浪の民の如く、新しい土地で新しい商売にかける生き様はユダヤ商人によく見られるものである。
アメリカへ渡ったバウマンはポップス・アルバム”REPEAT REPEAT”や”STRANGERS IN THE NIGHT”をリリースし、メジャーな路線で勝負をかけた。

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アルバムはそこそこのセールスを得ることができたようだが、同時に自身のヴォーカルやソング・ライターとしての限界にも気づき、再び彼の苦悩が始まる。
「タンジェリンにいた頃から、未知の音の探求ばかりやってたので普通のポップスの方がかえって新鮮に感じた時期もあったけど、やってみて、やはりこれは本当に自分のやりたい音楽ではない、ということがわかったんだ。」
そこで彼はアメリカで音楽業界で食っていく為に次なる行動をおこす。(続く)
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