桃李庵日乗

 

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投稿者:桃李庵主人
三鷹さん、いらっしゃいませ。

以下、2001年1月に私が「ASSAHI新聞掲示板」に書いたものの抜粋ですが、「芸者」について−−

「百年前に撮られた新橋の芸者の写真ってのを見たことがありますが、今のウチの女子学生たちより気品のある顔つきでした(笑)。これって、由々しきことじゃないのかね本当は。芸者に品があるのはいいが、一般家庭の子女に品がないとしたら(以下略)」
投稿者:三鷹板吉
今盛んに予告編流しているスピルバーグの「SAYURI」じゃ北京女優のチャン・ツィイーに日本芸者を演じさせておりますが、相当の違和感が予想されます。
もっとも当時の花柳界というのも、現在の日本人にとっては異質なカルチャーでしょうから、結果として「イイ感じ」になるのかなー、とも。
投稿者:ウナギ象
レスありがとう。こちらももう少し付け足す。
「自分の見たいものを相手に見出す」そして「自分が見たいようにしか見ていない」というのは、サイードが西欧によって描かれるアラブ像に対する告発であり抗議だから、その意味ではここでの話題にサイードを出すのはぜんぜん的外れではないのでその点は撤回します。

ただ「エジプトのアメリカンスクールで学んだパレスチナ人」のサイードは民族固有の文化や価値観の違いを強調する方向には行かず、「人間皆同じだろ、化け物扱いするなよ」という主張をしたのだと思う。

これを「同チ飯クテトコチカウ」理論とすれば、レヴィ・ストロースのは「了見の違いは確かにある、(だから一方が他方を描けば必ず偏見が生まれる)」というものだと思う。『ラスト・サムライ』は「買いかぶったり変なところを褒めるのも偏見のうち」という好例だとも言える。(かく言う私も両方とも実はちゃんと読んでいませんw)

実のところ、サイードやチョムスキー(この二人は前者の論文の審査において師弟関係w)の反米的言辞は全人類の普遍的共通性を前提としていて、発想がグローバルスタンダードな所がどうも感心できないのだ。こういう人道主義者が保守に転向して軍事力を握ったのが一見敵側のネオ・コンなのじゃないかと思う。両者は根が一緒なのだ。
投稿者:桃李庵主人
つづき。

 レヴィ・ストロースはちゃんと読んだことがないのでわからぬが(ホント言うとサイードもだけどネ)、...『ラスト・サムライ』についてならいろいろ言いたいことがある。ラストの「合戦」ですが、柵を設置して反乱軍の突進を防いでいれば、いくらなんでも「刀対着剣した小銃」の白兵戦なんていうばかげたことは起きず、新政府軍はボルトアクション小銃の利点が十分に生かせてヤラズブッタクリの大勝利に終わったのではないかと思いますがどうでしょうか。柵すらないんだもんなあ...新政府軍の軍事顧問はヨーロッパ人だけに、長篠の戦いを知らなかったのでしょうw
投稿者:桃李庵主人
>「自分の見たいものを相手に見出す」

 ウナギ象氏の言う、これ↑、まさにこれのために「カルチャーショック」とか文化の「遭遇」「衝突」を舞台設定として利用するのは本当によくあるよね。人魚とか吸血鬼とかは抗議しようにも、アメリカ国内にロビー勢力がいないから仕方がないか。

 「日本人の失ったものが△△にはまだある」とかいうやつはそのひとつの典型だろう。結局、異文化が理解したいんじゃなくて、今の日本人が嘆かわしいとかダメだとか言いたいがために、勝手に理想化した「過去の("真の")日本人」をその異文化に投影しているんだな。

 これは左右両翼にあるね。「アジア」っていう茫漠としたアヤフヤなものに(しかも、「貧しくともキラキラ輝く子どもたちの目」とかに)投影するのはどっちかというと左翼的な人か、キリスト教関係者だ。
 どっちかってと右翼的な人はたとえば「台湾」に勝手に「今の日本人が失った美徳」とか「大和魂」を見いだして美化し、それとの連帯を日本国内に訴えようとすることがある。台湾人と連帯して中国と対峙する、のはいいが、台湾をやたらに理想化して永久に自分の友だと信じたり、自分の身内のように思いこんだりしてしまうのは考えものだ。いくら台湾だって所詮は外国なんだからね。台湾は台湾自身の利益と都合を最優先すべきであり、実際そうするだろう、という点ではどんな外国とも変わりがない。親日的な国でいてくれるのはありがたいが、それにこっちが甘えちゃだめだってことだ。「日本の便宜のために」存在してくれてる外国なんてあるわけないんであって、その当たり前のことがわかるのならもっと落ち着けばいいのに、友好的な国には甘えてしまい、敵意のある国にはなぜか怯えて媚びてしまう、っていうのはやはりバランスとれてなかったよな、これまでの我々は。
投稿者:ウナギ象
 平田オリザが韓国で日本統治時代の韓国を舞台にした芝居を上演した時、韓国の評論家が言った。「ここに描かれた日本人は私がこれまで見た韓国の映画やドラマで醜悪に描かれた日本人より遥かに私の憎悪を激しくかきたてた」

この芝居は見ていないのだが、たとえば総督府の高官の夫人が慈悲深く「朝鮮人だって私たちと同じ人間なのだから邪険にしてはいけないと思いますわ」と口にしたとしたら、その「お情け」は観客をさぞ苛立たせただろう。韓国式憲兵の高圧的な殴打がある意味相手を対等に扱っているのに対し、この夫人の慈悲は優位を前提にしており、一番知りたくない当時の彼らの「みじめさ」を真っ先に容赦なく再現するのだ。中韓の反日表現に欠けているのはこのリアリティだろう。それは彼らの願望と甘さを反映している。

 文革期の中国で教育映画として作られ娯楽作品として盛んに見られた『地道戦』『地雷戦』は、農民の抗日ゲリラ戦を描いているが、日本人の私が見ると、日本軍人がちっとも日本人ではないせいで、馬鹿馬鹿しくも妙に面白い。SFかファンタジーにしか見えない。「人民の力こそが戦いを勝利に導くのだ」というナレーションも別の意味でファンタジーだ。

トム・クルーズの描いたサムライがアメリカインディアンみたいだと言われるのも「自分が見たいようにしか見ていない」例だが、このご時世にアメリカマンセーならぬ反省の映画を作っただけでもいくらかましだろう。

 カルチャーショックを描く者の動機の根底は「自分の見たいものを相手に見出す」ことにある。都合よく描かれる「見られる側」にとってはたまったものではない。映画「スプラッシュ!」は果物市場で働く若者が人魚娘と恋に落ちる話だが、彼が惹かれるのは人魚の「純真さ」であって、そこにあるのは打算や駆け引きのない理解への欲求だけだ。だから別に人魚でなくてもいいのだが、実在しないぶん、インディアン娘像を捏造するより罪は軽い。人魚にとっては貝を開けずにばりぼりかじるのは日常の習慣に過ぎないのだが、主人公にはそれも純真さと映る。その誤解やすれ違いも悲劇にならないのは、恋愛をテーマにしているからだ。

というか、この話って、サイードよりレヴィ・ストロースじゃないかっつう気がします。(長レスにつき省略多数、補って読まれたし)
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