2022/5/5

ごがつ  
 気づいたらもう五月になっていた。
3月は年度末。。Ova9の事務仕事やら、今年のプロジェクト準備。伯母の葬儀で信州も行った。4月からはOva9早々に12月公演へ向けてのワークショップも開始。三寒四温なりに花々は咲き乱れている。特に今年は躑躅が良く目につく。
 ずっとずっと行きたかった坐禅断食に、2年7カ月ぶりにやっと行けた。キャンセル待ち何度もしたが空席がないので、クローズドの会を開催してもらう。女優仲間と高校時代の友人たち。4月30日に始まり、中日の5月1日は新月。坐禅断食には最適と思われた。数えたら6回目のおつとめ。2日に明けの食事を頂いてすっきり大満足。今回はそれほどしんどくなかった。季節が良いせいか。躑躅も藤の花も美しく咲いていた。でも薪ストーブからはやっぱり離れられない。火を見ていると落ち着く。
 帰りに、日野春アルプ美術館、へ立ち寄った。来年いっぱいで閉館するそうだ。山の絵を見る。GWになっていたが、帰京したらOva9稽古、憲法記念日にサイレント・スタンディングで新宿駅南口に立つ。そして昨日はまた葬儀があって早朝から出かける。お別れする人たちがあるたびに、自分の終活も考えなきゃと思う。いやぁ、人生って短い…アッという間だぞ、は父の口癖だったけれど。今、今、今、今を大切に生きるしかないんだけど、一日はアッという間に過ぎていく…。今年も何だか下半期が埋まってきた。地に足付けて大切に生きていきたい。なんか、大真面目である。クリックすると元のサイズで表示しますクリックすると元のサイズで表示します
0

2022/3/12

2月  
 深く息を吸って、意を決してキーボードに向かう。今週の月曜日昼前、井上倫宏さんの訃報。信じられず、余りにも早すぎてなかなかさようならが言えない。

コロナになって2020年の新学期5,6月は学校閉鎖で授業ができなかった。井上さんとペアを組むことが多かった都立の芸術高校のクラス。10月は二人で一年生の授業を持った。「ハムレット」第5幕1場、道化の墓掘り二人のシーンをやろうと言ったのはのりさんだった。少し意外な気もしたり、1年生にはどうかなと思ったけれど、今年度も私はそのテキストを使った。今年度は学校にはいらしていなかった。病気の治療のためと聞いていた。

 思い出していた、のりさんと初めて共演した『運転免許わたしの場合』2009年3月公演。ポーラ・ヴォ―ゲルの翻訳劇でのりさん主役、私は妻の役だった。訃報が入った日がお誕生日でその翌日Facebookが13年前の今日の投稿と私に教えてくれた。2009年3月8日の投稿はそのお稽古中、という投稿だ。静かだけれど危うくて、色気のある魅力的な人物…とても印象に残ってる。
 翌年、シアターカイで「桜の園」の翻案劇に出演したのを観に来て下さった。外国人の演出家で、主役、自信が無かった私がどうだったかと意見を聞くと、「そんなこと聞かなくても、ちゃんとしっかりやっていたでしょう。」と言って下さった。その言葉が何よりも強い支えになった。
 2014年岸田國士リーディング「歳月」では、私の演出、理想のキャスティングに参加してくださった。私のような者の誘いを、引き受けてくださったのが嬉しかった。2017年「屋上庭園」に再び出演してくださった。その頃から芸術高校でもご一緒できるようになったので、同じ教室に並んで座る機会に恵まれた。

 亡くなったのは2月28日で家族葬が済んだ後の公表ということだった。昨年の2月にも悲しいお別れがあった。その時と同じ百合の花を買ってきた。蕾が全部開くまで毎日思い出していられる。いろいろなことをありがとうございました、のりさん。でも、まだまだ受け止めきれない気持ちです。クリックすると元のサイズで表示しますクリックすると元のサイズで表示しますクリックすると元のサイズで表示しますクリックすると元のサイズで表示します
1

2022/2/22

22/02/2022  
 2022年2月22日、フランス式表記だと完全にシンメトリになる数字。ニャンニャン猫の日だそうだ。昨日、京都から帰京した。

 お正月の3日から、プロジェクトニクス公演『さんせう太夫』のお稽古から、先々週6日から13日まで本番。沢山の公演がコロナ中止になっているこの時期に、8日間12ステージを完走できたことは、本当に幸運だった。スモークと埃と乾燥で、痛みはないが声がしゃがれてしまったのは、相当な疲労のせいもあった。打ち上げも失礼して、京都入りの準備。翌朝、朝一で抗原検査をして、陰性の結果と共に新幹線に乗る。
 ミモザプロジェクト『わたしたちの道』シアターE9 KYOTOでの公演の稽古に再入。稽古場に直行すると、台本が更に修正されていて面食らったが、兎に角やるしかない。朝9時から夜まで、演出家は現地パリ真夜中のというか日の出前のリモート参加。誰にとっても過酷だった。19日、20日で3ステージ無事終了。終了というよりは、やっと産み落としたという感慨だった。これから育てていく作品、という気がした。
 ありがとう。京都の最強スタッフと、共演者に感謝の気持ちでいっぱい。劇場支配人の蔭山さん、懐かしい人にも再会した。

21日ホテルをチェックアウトして、地下鉄で四条まで。大好きな「じんとら」さんの山椒を買いたいばかりに。方向を間違えたので歩行中の老婦人に道を尋ねると、一緒に錦市場まで行ってくれた。しっかり買い込んで、向かいの冨美家で鍋焼きうどんで温まる。テーブルにあった黒七味が美味しかったので又じんとらさんの店先にいると、先ほどの婦人が通りかかる。「まだここにいるんかいな」私「おうどん、食べてました」
 四条通りを渡って、さてお湯に入りに行くぞ、さっき婦人が教えてくれた、壬生寺口行きのバスに乗るのだ。バス停まで行くと、またさっきの婦人がいた。「よく会いますねぇ」「お湯に入ったら風邪ひかんようにね」「はい,直ぐ新幹線に乗ります」こんな会話が嬉しい。
はなの湯、で露天風呂につかると雪が舞う。丹波口駅から京都駅へ。壬生寺でもここでも、道を教えてくれる方々が優しい。涙出てくる…。帰りの新幹線で雪景色を見ながら独り打ち上げの心境であった。
 クリックすると元のサイズで表示しますクリックすると元のサイズで表示しますクリックすると元のサイズで表示します
0

2022/1/1

華  
2021の秋からが猛烈な忙しさだったが、年内の締め切りも間に合わず大晦日になり、気持ちばかり焦ってもだめだから、最優先することを考えた。朝から横浜へ。父のお墓参り。年末商戦で沸く地下街のイベント花屋は大賑わい。百合を二本買う。家には、二七通りの老舗の花屋さんで、今年はシクラメンの鉢も買った。母の好きだったシクラメン。赤はもう売約済みになっていて、最後の一鉢だった。鉢植えの花はひさしぶり。暮は、いつもの歳のお正月用の食料品代くらいお花を買った。父の墓前にはカサブランカ。1時間くらいはお墓にいて掃除したり、ブラシで磨いたり。天気が良いので着込んでいたが動いていたら身体はポカポカしてきた。駅の手前の横丁で「暖暮」という名のラーメン屋さんに入ると、女性が一人で切り盛りしていた。激励して外に出ると、小雪が舞っていた。家に戻り休まず大掃除。玄関と窓は念入りに。そして長ーい牛蒡を切って前日から酒につけて戻しておいたするめと昆布で松前漬けを作る。仕事に手がつかない。お正月。クリックすると元のサイズで表示しますクリックすると元のサイズで表示します
0

2021/8/15

0812  
1985.08.12を忘れずに35年が経ち区切りを感じて、2020年は御巣鷹山慰霊登山に行くつもりでいた昨年、コロナ感染症の影響で慰霊祭は中止、一般の登山に関する情報も得られなかった。今年こそはと思い、一般の公開日程を確認し、レンタカーも予約するところまで行ったが13日からの大雨、コロナ感染症の新規感染者爆発中という中、残念ながら断念した。PCR検査をして13日から稽古に入ってもいたし自粛するしかないと判断した。能仁、あれからもう36年も経つのかと、ずいぶん長い時間が過ぎたね、と心の中で囁く。毎年のことだけれど、この日が来ると、SNSで色んな人が記事を投稿していて、できるなら余り読まないようにしてきた。テレビの特番、年月を経て数年前に新聞記者や当時の看護師が証言したこと、などに触れた。演劇を続けてきたことの本当の理由かもしれないあの出来事は、様々な謎も含め、私には重い意味がありすぎて、簡単には振り返れない。
 来年はどんなことを考えているだろうか。
0

2021/7/17

Vaccine  
昨日コロナワクチン2回目の接種翌日、副反応で丸一日ダウンした。梅雨明け宣言、東京が夏になった日だった。朝からだるーく、微熱、節々の痛み、喉の渇き…。思えば、2年位前にインフルエンザに罹った時以来寝込むこともなかったから、久々にゆっくり休んだと言えば言える。接種からちょうど24時間経った時間に37.8度を頂点に、次第に下がり、翌日今日は朝から平熱でむしろ元気だった。
 何が何でも鰻が食べたいと欲し、地元の麹町「秋本」へ開店時間に行く。既に並んでいた。30分はお待ち頂きます、と言われたので自転車に飛び乗り、赤坂へ下る。本籍地一ツ木通りの「にょろ助」(旧瓢六亭)へ走る。入れました!待つこともなく思いが果たせたので嬉しかった。子供の頃からあるお店はまだ少し残っているが、この店が昭和40年代何だったかが、思い出せない。
 帰りは自転車を引いて歩く。弁慶橋から祖母に負ぶわれて来た清水谷公園。清水谷公園の工事は終わっていた。池には亀の姿がたくさん。鯉も泳いでいたし、アメンボもトンボもいた。水際で足を少し濡らして帰路につく。真夏の日差し。
 色んな夏を思い出す…日陰のないアヴィニョンの夏、鎧戸を閉めてシエスタをしたバルセロナやセヴィリアの夏、47度だった。マルセイユに吹くミストラル…グラーツの路面電車…あれは夏じゃなかったっけ。。色んな所へ行ったけど、いつになったらまたそんな世の中になるのかなぁ、ならないのだろうか。
クリックすると元のサイズで表示します
0

2021/3/5

333  
令和3年3月3日、山陽新幹線で岡山へ。神戸より西に新幹線で行くのは何十年ぶりかもしれない。アパレルの営業だった時代に鳥取の米子へ出張したのが西の果てだったように思う。
 公演のツアーは難題を抱えていた。新型コロナ感染症が流行り出してから早一年、色々とある。
思えば10年前、東関東大震災、同じプロデュース公演で初旅だった時には福島市からのツアーで、見えない放射能の脅威に怯えていた。内部被曝、アレルギー反応倍増、常に止血剤携帯は今も続いている。10年後こんな感染症のパンデミックになるとは。30年余芝居やって来て時におそろしくなる。しかし、あの福島へ行く時、演劇人の使命だと感じていた。今この状況で、同じ使命を感じている。それが正しいことだと一心に信じたい。ゾロ目の日、夢見はまた旅立ったあの人の。それはそれでいい。
0

2021/2/22

2222  
2月22日の朝、夢見た。2月2日にお別れしたあの方の。
長く伸びた髪を切った。そうしたいと思ったから。
この1ヶ月、なかなか落ち込んでいた。今日夢の中でその人に会って、私は、「生きているあなたに会えたのが嬉しかった」と言っていた。それは、今のことじゃなくて、私たち2人が同じ時空で会っている感じだった。私の人生の中で、間断を置いて何度も出会った。そういうご縁が深かったのだと体感している。それが、抱かれているような柔らかさ、というか、やさしい親しさというか、埋もれてしまうような感覚。そんな気持ちになることに今自分が少し驚いている。私だけが持っている、その感覚、を忘れない、きっと。
1

2021/2/8

節分・立春  
 1月最後の日曜日に届いた訃報に衝撃を受け、矢庭に関係筋に連絡を取り始める。ただ居ても立っても居られない気持ちだった。忘れられない写真を取り出すと、日付は丁度30年前の節分の日、舞台の初日だった。Mさんの舞台を初めて見たのは恐らく、1976年の夏休みだろう。45年前…。恐ろしく長い時間。。その時ははまりにはまったけれど、次第に興味は別なことに移った、が、その15年後に演劇界で巡り合うことになる。少女の思い出は深く心に刻まれていて、胸が躍り、心中は穏やかではなかった。こんな風にいつか巡り合うことがあるのだと感動していた。全てのツアーも終わり打ち上げの打ち上げがMさんの自宅で繰り広げられている最中、猛烈な腹痛で私は救急車を呼んでもらい、数件の病院を回った後に調布の病院に入れられた。当時尿管結石という診断を信じていた私は持病の発作だからもう救急車しかない、と判断したのだ。検査の結果は誤診で、実はもっと重大な病気だった。入院中に父が他界。自分の身に起こった出来事を持て余し、私が生きていることも奇跡のようで、命の恩人と思い、私は退院後Mさんに長い手紙を書いた。返事はなかった。何年も後にお仕事で再会した時には、「あんな手紙もらって返事の仕様がないやん」と言われた。ごもっともだった。1991年のお芝居から再び間断を経て、別な形でまたお仕事の現場で再会した。幾度も。
 私の転機になった渡仏以来はお会いしていなかったけれど、訃報には耐えがたいものがあった。信じられない、悲しい、という以上に、自分の人生を顧みてしまう大きな衝撃。節分の2月2日、ある方の好意でお別れに行くことができた。次の日からは気持ちが漫ろだったが頑張って仕事の現場へ向かった。週末の金曜日に熱を出した。動けなかった。その日は一日養生し、翌日出掛けると、私を連れて行ってくれたその人に会う筈もないのに遭遇した。お互いにあまりの偶然に驚いた。彼の人はもう旅立っていた。前日がご葬儀だったと聞いた。私が熱を出したのもその人に遭遇したのも偶然ではない思いがした。
 今年2月2日が節分なのは37年ぶりだとか。昔は大晦日と同じような歳の終わりと考えられていたという。立春から確かに季節が移った実感。「さよならだけが人生」なのか。もう少し頑張るために、いま必死に自分を鼓舞している。
2

2021/1/13

挫折が呼び戻す思い出  
昨年の終わり、ある演劇系大学の講師募集に応募した。自分から進んではしないことだ。これまで私の行なったワークショップに幾度も参加してくれて、フランスの我が母校まで留学にも行った俳優の人たちは10名近くに及ぶ。そのうちの一人が、自分の卒業した大学の演劇専攻科が採用を公募している、と情報をくれて、「優さんのような指導者が必要」なんて嬉しいことを言ってくれたものだから、つい出してみた。新春の連休の最終日に応募書類は戻ってきた。主任という方の5行程度のあいさつ文と共に。そのお方はどういう方か、ちょっと検索してみた。自分よりも若いし、きっと次世代を担う方なのだろう。採用はされなかった。
 自分の経験から、どんな指導者に出会うかはある意味決定的なことだと感じている。師匠フィリップ・ゴーリエの学校で始めてサマースクールのアシスタントをしてから、翌年、クラスを持ってみろと言われた。私が「教えた経験が一度もない」云々ともじもじ返答していると、「わざわざ説明ありがとう」とだけ彼は言った。「心配するな、お前が良い先生じゃなければ、生徒が勝手に来なくなって必要なくなるだけだ」と恐ろしいことを言われた。数か月が経ったある寒い朝、フィリップが私を呼び止めた。「あ、クビになるなきっと」と私は縮み上がった。「どうも不思議なんだけど…お前のクラス人が減らないな」と彼は言った。私は黙って笑顔を返し、半ばうれし涙をこらえながら教室へと上がって行った。私にとってフィリップは偉大な先生だ。彼に教えてみろと言われたことは、大きなオーディションだった。やるごとに私はたくさんのことをそこにいた俳優たちに教わった。様々な国籍、年齢の生徒たちに。今もう一度、彼に感謝している、あの経験があったことで、今私は日本でわずかな時間だが教えることができる。そんなことを改めて思い返している。
3


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ